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2008年03月02週
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 “遊び人”は、仕事もしないでぶらぶら遊んで暮らしていられる人のことで、そのことが全く評価されない訳ではありません。そんな人がたまにいたとして“まあ、いいか”と許容するぐらいが、そのほかの人たちにとっても住みやすい社会、ということになります。靴などの場合、全くぴったりだったりするより“すき間・遊び”のある方が歩きやすかったりします。“遊び”は必要なのです。


 子ども、中でも幼児期の子どもにとって“遊び”はとても大切です。成長する力を内に秘めている人の子どもは、だからと言って生きる力を身に付けるのはたやすくありません。自分とは全く違う他者との関係を作り、自分なりの居場所を見つけて行くという“至難”の業を生きて始めて、人は生きて行くことができます。生きる力は、教えられることがあったとしても、自分で身に付けていくよりない力です。という“至難”の業を、子どもたちは遊びの中で成し遂げいきます。遊びだったら、そんな難しいこともできてしまうからです。


 たとえば、ひもをぐるぐる巻いて巻き戻す力で回す“こま回し”は、それを成し遂げるのにはいくつもの壁があります。ひものはしの“結び目”を使って、こまに引っかけ(“引っかける”程度にしておかないと、巻き戻した時のこまがひもから離れない)、弱すぎもせず、強すぎもしない程底にひもを巻いて(弱すぎても、強すぎても巻いたひもが崩れてしまう)、ひものはしを指にはさみ、巻き戻す勢いでこまは回ります。というこま回しの解脱の難しさに負けないくらい難しいこま回しの操作を、3、4才の子どもたちが成し遂げていくのは、それが“遊び”だからです。そのこま回しは、操作をするのは全く自分ひとりの力であったとしても、誰かが遊んでいるのを傍らで見ていて興味を持ち、自分でも遊んで失敗し、失敗を繰り返し、あきらめることもあって、もう一度遊んでいるうちに、いつの間にか回せるようになります。結果“遊び”を“遊ぶ”ということは、いろいろ人として生きる力を身に付けるものであることが解ります。そうして身につけることになる力が“待つ”“根気”“忍耐”などと言われたりすることもありますが、どうであれそこで育っている人の生きる力です。“遊び”のことでは「幼児期―子どもは世界をどうつかむか」(岡本夏木、岩波書店)にずいぶん教えられてきました。


 西宮公同幼稚園の子どもたちが外に出て“おさんぽ”をするのも、うんと足をのばして六甲山を歩いたりするのも“遊び”です。年長の子どもたちは、秋から冬にかけて、いつでも子どもたちに見えている六甲山に登ります。そうして六甲山に登る子どもたちは、目的地(頂上や尾根)を目指し、頑張ってそのことを達成するという山登りをしません。あれこれおしゃべりをしながら“移動”しているうちに、そこに着いていたという山登りをしています。阪急御影駅から石切道を歩いて陵雲台までは、標高差が800メートル、距離が6キロメートル、子どもたちの足で4、5時間歩くことになります。5、6才の子どもたちにこんな山登りは、仲間と過ごしてきた、“遊び”を“遊ぶ”ことで身に付いた力がその延長で初めて可能になります。
卒園を前にした子どもたちが3月の始めに“須磨アルプス”を歩きます。須磨浦公園から歩き始めて、板宿に下りてくるおよそ8キロメートルです。3月5日には、その須磨アルプスを季節はずれの"吹雪"に驚いたりしながら歩くことになりました。雨具などを装備しない子どもたちの六甲登山の天気は“快晴”が条件です。3月5日の朝の六甲山は山頂付近に雲がかかっていました。阪神間の街は晴れているのに、頂上付近に雲がかかって冷え込んだ日に吹き下ろしてくるのが“六甲おろし”です。そんな日の山の天気は変わりやすくなっています。


 3月5日、六甲山の須磨アルプスの一番の難所である“馬の背”にかかる頃、山は“吹雪”になってきました。その吹雪の馬の背を越えるに際して、同じ須磨アルプスを子どもたちと同じコースを訓練で歩いていた、50、60人の機動服の警察官に手伝ってもらうことになりました。半数の子どもたちは一緒に行動していたお母さんたちが手を引いて馬の背を越え、残りの30人の子どもたちは一人一人警察官に手を引いてもらって馬の背を越えることになったのです。そうして吹雪の馬の背を警察官に手を引いてもらったのがうれしくて、自慢だった子どもたちは家に帰って、さっそくそのことを報告していたそうです。おもしろかったのは、お母さんたちに手を引いてもらったはずの子どもが自分も“おまわりさんに手をひいてもらった”と、報告していたらしいことです。それが全くの“ウソ”であるということではなく、子どもというものは、自分の物語を作って遊ぶことにおいても名人なのです。ですから、こんな時の“ウソ”を追及したりしないで、誤差の範囲として了解して付き合うのも、子どもと大人の大切な“遊び”であったりします。



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