橋本治が「小林秀雄の恵み」で「何かを説くから『思想』なのではない。思索にとって必要なあり方を体現しているから『思想』なのである」と書いていることが、少し解る様な気がしています。
3月になってから、あわただしく過ごしています。ゆっくり、ていねいにこの街で生活する関係を作り出す願いで取り組んだ自分の生活が、あれこれあわただしくなってしまっているのです。
「にしきた街づくり協議会」とそれに関係する集りが、月に2回ぐらいあって、2時間の会議と、たまに会議に提案する文書やその準備に追われたりします。街づくりは、阪急西宮北口駅前の2つの公園の一体化、幼稚園前が更に完全に“遊歩道化する”などのことが具体化しつつあります。そうして“整備”されることが、この街で生活する人たちの“街づくり”になるのか気になっています。
「西北活性化連絡協議会」は、2008年末にの北口駅南東の“阪急ガーデンズ”のオープンを間近にして、具体的には何一つできずにいます。北口駅を中心に、東西南北が一体となっていることで、巨大商業施設“阪急ガーデンズ”の影響を、共有できるように、①4つの地域を老若男女、人が歩いて行ったり来たりできる。②4つの地域が一体であることを前提にした駅及び、駅周辺の道路の整備・・・などのことを市や県などにお願いしたり提案したりしています。・・・もちろん、なかなか願いは届きません。
「西北活性化連絡協議会」の2つの企画に協力して、近隣の大学の学生と“学生等提案事業”をテーマに話し合ったり、3月30日には「西北街づくりフォーラム“いのち”を共に生きる」を準備しています。主催・後援、場所が決定し、内容もほぼ決まりましたが、参加の呼びかけなどはまだまだです。
3月20日には、兵庫教区教育部が中心になって実施してきた「教会と子どもセミナー」が、教会礼拝堂、幼稚園などを会場に開催されます。教会学校や幼稚園などの参加呼びかけが遅くなって、参加者の確認ができていません。というか、もともとが忙しくなるこんな時期に、いくつもの催しが重なってしまうことになって、更にあわただしくなっています。
3月10、11日には関西学院大学神学部の“同窓会”があって参加しました。この同窓会は、数年前の“同窓”の牧師の“セクシュアルハラスメント事件”のことで、ずっと混乱してきました。というか処理能力を問われてきました。事件の“被害者”の代理人が民事訴訟を提訴する発表の席で、訴えられている牧師の友人が“支援”する文書を配布するということがあったりして・・・とにかく困った人たちの困った同窓会なのです。そんな同窓会の同窓の1人として、困ったものだと思っていて、「困ったなりに、なんかできそうなことがありそうだ」と言ってしまって、することが増えてしまいました。
兵庫教区は、1995年1月17日の地震の後、被災した教会・教区としての取り組みの一つとして「被災者生活支援長田センター」を立ち上げ運営してきました。それが、“資金難”で存続が危ぶまれています。しかし、資金難というものは、いきなり明らかになるものではなく。ズサンに運営してきた結果です。どんな働きも、財政的な裏づけがあって始めて可能であって、それがなくなれば存続できなくなります。存続するのであれば“収入に見合った支出で予算を立てた方がいい”、という当たり前のことを発言しています。
3月4、5日には、日本基督教団教育委員会主催の「教会教育セミナー」が高知で開催され参加しました。“激減”し続ける、キリスト教会の子どもへの働き、“教会学校”の実態は深刻です。どんなに教会学校の子どもが“激減”したとしても、こどもが全くいなくなることはありえないし、子どもが生きる時の課題・問題もなくならないとしたら、存在理由までなくなることはありません。という状況で、いろいろ具体的なことを紹介しながら発言しました。
3月26日は、幼稚園を卒園した子どもたちを歓迎する六甲登山です。3月17日に幼稚園を卒園して、在宅で力をもてあましている子どもたちへの“サービス”で実施される六甲登山です。左ひざを悪くしているので、付き合えるのかどうか不安だったりしています。
4月1、2日は、新しく5年生(以上)になる子どもたちが参加する平安荘ワークキャンプです。少しばかりの“ワーク”と、春の野草の天ぷらをたっぷり食べて、一晩を過ごすのはもちろんいい時間です。
3月15日には、姉の“三回忌法要”があり、2ヶ月ぶりに施設で世話になっている父を訪ねました。ちょうど食事中で、少し付き合っている間にきれいに平らげていました。“会話”が難しいので、近況を紙に書いて示すと、一つ一つ軽くうなずいていました。人が生きるということは、“食べて眠る”ことと、生きてきた関係が糧になってのことでしょうが、“生きてきた関係”がたまにしかできないのは残念です。
他にもいろいろ、人間関係のことで考え込まされています。そうして考えこまされている“人のあり方”が混乱して見えてしまうのは、人のあり方を思索し、語るに足る思想に練り上げる営みを怠った結果かもしれません。
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