石原吉郎は1945年の日本の敗戦の直後に、ソ連軍の捕虜になり、1948年からは“政治犯”としてバイカル湖北方バムの“強制収容所”で“強制労働”に服することになります。「・・・長期の輸送による疲労、環境の激変による打撃、適応前の労働による打撃、食料の不足、発疹チフスの流行」(「望郷と海」石原吉郎、筑摩書房)などで、強制収容所の死と向かい合う“苦難”を1953年まで強いられることになりました。ただそこに死があるのではなく、極限の強いられた苦難とその結果の死と向かい合うのが強制収容所であり強制労働であることを、いくつかの文書で書き残しています。「『もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない。』これは、私の友人が強制収容所で取調べを受けた際の、取調官に対する彼の最後の発言である。その後彼は死に、その言葉だけが重苦しく私の中に残った。この言葉は挑発でも、抗議でもない。ありのままの事実の承認である」(「石原吉郎特集」思潮社)。
イエスが十字架で苦しんで死んだこと、そこに至る自分のことで苦しみぬいた、その“苦難”はキリスト教の避けて通ることのできない課題でした。「・・・人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、しかもあからさまに、この事を話された」(マルコによる福音書8章31、32節)。「・・・恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた『わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目を覚ましていなさい』そして、少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけた」(14章33~35節)。「そして、3時、イエスは大声で『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と呼ばれた。それは『我が神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(15章34節)。こうして、イエスが引き受けることになった苦しみは“苦難”そのものであったのですが、それを重要であるとしたキリスト教は教会の暦の中に具現しようとしました。いわゆる“受難週”であったり、“受難日”であったりするものがそれです。2008年の教会の暦では、3月16日からが“受難週”、3月21日が“受難日”、「三日目によみがえると言われた」それから“三日目”の3月23日が、“復活日”になります。こうして、キリスト教会の暦の中に組み込まれたイエスの“苦難(受難)”は、もとはと言えばマルコによる福音書のいくつかの記述から想像できるように血みどろの苦難そのものでした。ですから、キリスト教会の暦の“受難(苦難)”が、それらの事実から離れた、教会の宗教行事であっていいはずはありません。
「受難」
だんご虫です 私の受難を聞いて下さい
のんびり 枯葉なんぞをかじっておりましたら
“小さな手”に 捕まってしまいました
マンマルになって ころがったりしましたが
よく出来たもので 存分に遊んだあとは
すっかり 忘れられてしまいました
もとの 居場所にもどって
のんびり 枯葉をかじっております
白くまです 私の受難を聞いて下さい
氷の世界ですが それが向いています
溶けはじめたので 気にはなっていました
今はもう 小さな氷の島ばかりです
子どもたちのことを 考えると
心配で心配で 堪りません
皆さまは ご承知のはずですが、
何もしていただけないのが 残念です
古い話ですが 私の受難を聞いて下さい
求められるものですから
「自分を愛するように、
あなたの隣り人を愛しなさい」
などと 古くからの言い伝えをもとに
自分で 出来そうなことを答えていました
ひどい話ですが 結果は十字架刑でした
後になって 甦ったなどと言われています
[バックナンバーを表示する]