“連休”の間に、父たちが世話になっている施設を、少しゆっくりと訪ねることができました。
宝塚の父が世話になっている施設まで、街路樹にずっとハナミズキが植えられています。ハナミズキは、今では“歌”にもなるくらい、珍しくはありませんが、、そのハナミズキが庭に植えられていて、30~40年前からその由来のことなどを話していたのは、一昨年98才で亡くなった松永清子さんです。桜が散った後、桜のように咲いて、桜より長く咲き続ける庭のハナミズキのことが松永清子さんの自慢でした。1995年の兵庫県南部大地震の後、自宅を再建する折にそのハナミズキが伐採されることになり、庭の手入れをしていたSさんのプレゼントした幼木が、今年ピンクの花をいっぱい咲かせたとのことでした。
4月27日に、ハナミズキが満開の道路を車で走り、宝塚の父の施設を訪ねました。その施設で、もうすぐ2年目を迎えることになる父は、2年前とはずいぶん変わってしまいました。訪ねる度に、“一緒に帰る”つもりで、3階のエレベーター前までやってきて、その時の父を振り切るようにして別れることに心を痛めてきました。今は、“一緒に帰る”とは言わなくなり、すべてのことを自分から遠いことのようにながめているように見えます。施設に世話になった当初、さり気なく言葉を交わしあいながらする囲碁は、父が白石で、“九目(もく)”の置石で指していました。1年くらい経った頃に、置石は“六目”になっていました。父の囲碁が弱くなったというよりは、普段は全く囲碁をすることがなくて、父とすることで少しは解ってきた結果の“六目”だったかも知れません。それが、昨年の夏くらいから、置石の数がどんどん少なくなってきました。いくつか、トラブルが続いたとかで、囲碁の為に部屋に持ち込んでいた、テーブルやイスも置けなくなってしまいました。それまでは、囲碁の石を持つしぐさで“やる?”と聞くと、“おお!”と答えていたのに、言葉も返さなくなりました。訪ねると、昼間でもベッドに横になっていて、“変だな”と思っていて解ったのは、今年になってからのトラブルの後で薬の服用が始まったらしいことです。結果、2月を最後にさり気なく言葉を交わす、大事な時間でもあった囲碁が全く出来なくなってしまいました。4月27日夕方に訪ねた時に、夕食は既に終わり、集会室のテーブルにうつむくように父は座っていました。何度かうながすうちに部屋に戻り、食事の後でしたが、持参したケーキを一口ずつ味わうように食べていました。7時頃には就寝になる為、着替えを手伝ってパジャマを着せようとしたところ、のぞいた介助者から「パジャマではなく“介護服”を着用させて下さい」と注意されてしまいました。でも、着せた“パジャマ”はそのままに、“また来るね”と別れました。(そこに置かれていた“介護服”“縦縞のつなぎ”のことでは、手にしながら“人間の着るものかねぇ”と思ったりするのでした)。
富山県氷見市の父の施設を訪ねるのに、久しぶりに“北陸道”を車で走ることになりました。春の北陸道は、新緑のまっただ中を走ることになります。新緑を“萌える”と言ったりする時、勢いのこともその言葉に込められているに違いありません、新緑は、ただそこにあるというより、その勢いで迫ってくるところが、どんな季節の緑とも違っています。施設に着いたのが遅かった為、顔をのぞかせるだけで、“明日来ます”と書き残し、翌日は午前9時頃に訪ねることになりました。朝食が終わって間もない様子でしたが、部屋に戻った父は、ベッドでカタツムリのように丸くなり横になっていました。なかなか開けようとしない目を開けさせ、ベッドに座らせて横から支え、“明るい時は、人間らしく起きていなくちゃ!”など、難聴で聞き取りにくいのを承知で話しかけたりします。午後3時頃に訪ねた時も、同じようにしていましたが、目を開けさせ、目やにをふきとり、ベッドに座らせ、筆談で別れの挨拶をしていて、何やら臭っているらしいことに気が付きました。おむつをのぞいてみても解りにくかったのですが、確かに臭っているので、“おむつを替えてもらおうか”と声をかけると大きくうなづきます。で、介助者に連絡しおむつ交換をしてもらうことになりました。ほとんどの時間を、カタツムリのように丸くなってベッドで横になっているとは言え、一週間ほど前に娘たちが訪ねた時に喜んで迎え、息子たちが5月1日に訪ねた時も、目を開いてそれと解ると口もとをほころばせ言葉も出る父です。ですから、すべてのことは解っていて、しかし多くのことは断念し、自分の現在を引き受けて生きる姿が、カタツムリのように丸くなり、汚れたおむつをガマンし、横になっている父なのかもしれません。その自分のことが解っていて、それを引き受けて生きている厳しさを、たまに表情の中に見せることがあるように思ったりもします。
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