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小さな手大きな手

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2008年05月04週
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 ふとしたことから、シェークスピアの「リア王」を読むことになりました。シェークスピアの全戯曲が“一巻”に収まっている「ザ・シェークスピア」(全原文+全訳、全一巻、坪内逍遥訳、第三書館)で「リア王」を読むのに一週間かかったのは小さい小さい文字を読むことに難儀したからです。“第三章”にかかった時、その小さい文字が読みづらく“これは、疲れているからか!”と止めにしたものの、翌日の晩には小さい文字が鮮明に見え、めがねを間違えていたことに気付いたりしました。そんなわけで、一週間かかった「リア王」ですが、そのおもしろさには納得しています。例えば、リア王とは別に、義兄弟に裏切られ、父の「勘気を蒙って」追われることになったエドガーがリア王と再会したとき「目上の人達が(リア王達)、こちとら同様の難儀をするのを見ると、身の不幸(ふしあわせ)を強(あなが)ち怨めしいとも思わん。たった一人で難儀をするのが最(いっ)ち辛い、安楽や愉快を後に残して。が、悲嘆(かなしみ)にも伴があり、難儀にも侶(とも)がありゃァ、たいがいの苦痛(くるしみ)が忘れられる。俺の苦痛は今日軽くなって堪(た)えいい、俺の苦しみを王もまた苦しんでいなさると思やァ。王はその為、俺は親の為に!」と独白します。そんな500年前の「リア王」が、ちっとも色あせて見えないのは、“王はその為、俺は親の為”の不幸が、多分人生そのもののこととして描かれているからです。
 

 同じようにふとしたことから、第138回芥川賞の「乳と卵」(川上未映子 文、芸春秋)を読みました。めったに読むことのない、芥川賞や文芸春秋を目にすることになったのは、文芸春秋が宝塚の施設で世話になっている父の部屋に届けられているからです。で、「乳と卵」の池澤夏樹、小川洋子、村上龍などの“選評”はそこそこ好評でした。ただ一人、石原慎太郎は「受賞と決まってしまった川上未映子氏の『乳と卵』を私はまったく認めなかった。どこででもあり得る豊胸手術をわざわざ東京までうけにくる女にとっての、乳房のメタファとしての意味が伝わってこない。前回の作品の主題の歯と同じだ。一人勝手な調子に乗ってのお喋りは私には不快でただ聞き苦しい。この作品を評価しなかったということで私が将来慙愧することはおそらくあり得まい」と、酷評しています。
 

 で、「乳と卵」を読んでの感想です。軸になっているのは、“豊胸手術”だったり少女の“失語”だったりで、今の時代を色濃く反映していますから“重い”物語です。作者は自分の描く事柄の重さをわきまえて、それを“大阪弁”でかわしたりするあたりは巧みなのです。更に、登場人物たちの“豊かではない”“貧しさ”が、ぎりぎりのところでつないでいる人間関係を描けるのも、この作家の力量です。そこで描かれている“人生”のことを“薄くて、軽い”と言ってしまう石原慎太郎の方が、うんと“薄くて、軽い”のは、都知事をしていて伝わってくる彼の言動で広く知られるところです。石原慎太郎は「太陽の季節」で“芥川賞作家”になりました。そのあたりのところを、中山千夏が、「母の友」の“空もよう”で書いていました(「母の友」2007年5月号)。彼女は芥川賞のことで石原の作品を思い出し、作品は当時読んでもいないが―、と前置きして次のように書いていました。“受賞当時、大西巨人が『太陽・・・』について書いた文に最近、出会ったからだ。ちなみに大西の『人間喜劇』は読んだ。いい。とてもいい。大西の『太陽・・・』について書いた文章は〔なんともこれは、あさましい世の中である。一群の特定の若い男達と女達とが、まるで盛りのついた牡犬と牝犬のように、いきあたりばったりにつるんでふざける、という類の小説を、ある男が書く。すると老若大ぜいが『新しいモラル』だの『新しい季節』だのと褒め称して騒ぎまわる。この畜生同然の文、交接風景を手放し肯定で描いた御本人が、また、『大人への不信』云々などと甘ったれ切ったことを、恥ずかしがりもせずにがなり立てる。(中略)右畜生小説の作者は、当時満23歳の既婚者である。その大の大人がおのれを「非大人」に見立てつつ「大人への不信」などという言葉を吐き出すていたらくは、不潔もきわまって、さもしいと言うもおろかな気が私にある。(『三田文学』1958年8月号)〕”
 

 たとえば、「乳と卵」の“失語”していた少女の緑子は、彼女の言葉を、ノートに記録します。「それから、きのうのよる、お母さんの寝言でおきて、なんかおもしろいこというかなっておもってたら、おビールください、っておっきい声でゆって、びっくりして、ちょっとしたら涙がいっぱい出て朝までねむれず、くるしい気持ちは、だれの苦しい気持ちも、厭やなあ。なくなればいいなあ。お母さんがかわいそう。ほんまにずっと、かわいそう。緑子」。というノートの文字に「緑子の文字は蛍光灯の青白い光の中でちらちらと震えているように見えて、これはわたしの目が震えているのか文字が震えているのか、そのあいだにある光が震えているのか、わからないままにわたしは15分かけてそれをゆっくり読み・・・」と、“震え”を描いたりする作家は“薄くて、軽い”はずはありません。残念ながら、人と人との関係が持ちこたえられたり、人と人との関係が崩れてしまわないとしたら、“だれの苦しい気持ちも、厭やなあ”と思える“気持ち”とそれを書いた“文字”の“震え”に気づくことからしかあり得ない“人生”を「乳と卵」は描いているように思えました。
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