15年ほど前、千歳から近い支笏湖畔の宿で、北川シマ子さんとチカップ美恵子さんに直接アイヌの歴史のことを聞く機会を作ってもらいました。幼稚園の研修で北海道に行って、そんな特別の時間があって、北川さん、チカップさんとは支笏湖でカヌーをこいだりもしました。北川さんもチカップさんも、アイヌ民族であることを宣言し、当時“肖像権”などのことで裁判で闘っていたりもしました。その年は、札幌で「世界先住民族会議」が開催されていました。会議の後半は、平取町二風谷(ビラトリチョウ・ニブタニ)の、復元されたアイヌの民家“チセ”(アイヌ語で家)などが会場になっていました。北川さんやチカップさんに誘われ、会議場の隅っこで“一般参加者”の一人として座らせてもらいました。会議の休み時間に、沙流川(サルガワ)の上流の川原で、大きなエソブキを皿に、野生のイチゴをいっぱいつみ、会議の参加者に届けました。北川さんが立ち上がって、イチゴのことと“この人は、アイヌ ネノアン アイヌ”だと参加者に紹介してくれました。
その平取町二風谷には、公立のアイヌ文化資料館から少し離れた場所に、私立のアイヌ民族資料館があります。展示されているアイヌ民族の民具など数千点を集めたのは、萱野茂さんです。アイヌ民族資料館は、2~3度訪ねたことがあって、萱野さんからはアイヌ民族と、民族文化の豊かさについて、具体的にいくつかのことを教えてもらったりもしました。そのアイヌ民族資料館の倉庫に、“和船”を見つけて感激しました。やはり、15年程前日本の川船である“和船”の起源が、アイヌの船の“チャラセ”であること、そのことを立証する為、既に作ることがなくなっていた和船を復元する計画があり、少しだけ協力することになりました。その和船を、木曽川の船大工が作り、木曽川を下り太平洋岸をこいで平取町二風谷まで運ぶことになり、それを“進水”させ木曽川を下る最初の日、その船をこぐのに参加することになりました。それから10年ほどたった2004年6月の二風谷のアイヌ民族資料館の倉庫でその船に再会し、書き込んであった“菅澤邦明”のサインも見つかりました。
萱野茂さんが同じ平取町二風谷に、アイヌ文化資料館ではなく、“アイヌ民族資料館”を自費で作ったのは、アイヌの資料をアイヌ民族として残したかったからです。北川さんやチカップさん、萱野さんたちはもちろんアイヌ民族は、特に明治維新以降の歴史の中で、アイヌ民族であることも、アイヌ民族として生きること(生活文化はもちろん、アイヌ語などを使うこと)も許されませんでした。
例えば、1899年の「北海道旧土人保護法」は、生活する土地は“共有”であった(私有財産制度はなかった)アイヌ民族の土地を取り上げ、耕作などに適さない土地を私有地として分配することになりました。しかし、山野、川、海を自由に行き来して、野生動物、サケ、山菜などの狩猟が生活手段であったアイヌ民族にとって、この法律は生活手段を根こそぎ奪うことになりました。そして今日に到るまで、アイヌ民族は居住地であった北海道、アイヌ語では“アイヌモシリ”(人間の大地)で民族としての存在も生存も否定され続けてきました。というか、日本(民族)は、先住民族であるアイヌの存在を認めようとしなかったのです。
例えば北海道で、アイヌ民族が先住民族であったことは、今日まで残されている多くの地名によって示されています。支笏湖(シコツコ)は、アイヌ語の“シコッ・トホ”(千歳川の・その湖)で、更に、千歳川(チトセガワ)は、元々はアイヌ語の“シ・コツ”(大・沢)にあらわれています。(「北海道の地名」山田秀三著、北海道新聞)。平取(ビラトリ)は、アイヌ語の“ビラ・ウトュル”(崖の・間の)が、元々の意味です。実際に沙流川をさかのぼって、平取町に入ると、沙流川をはさんでそこは、崖の間の町なのです。そうして、伝えられてきて、“和名・漢字”があてはめられてきた北海道のアイヌ語を語源とする地名は、どんどん和名そのものに呼び方も変えられてきます。札幌市内の地名“月寒”は、“ツキサップ”でしたが、今ではそのまま“ツキサム”と呼ばれます。しかし、月寒は“ツキサム”ではなく、ツキサップ、アイヌ語の“チキサプ”(我ら・こする・もの)が元々の意味なのです(前掲「北海道の地名」)。
2008年6月6日、日本は否定し続けてきた“多民族社会・国家”であること、アイヌ民族が先住民族であることを、国会の決議として認めました。これは2007年の「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を、その国連では賛成しているのに、国内では先住民族であるアイヌ民族を、それとして認めないことが、国際的には通用しにくくなった結果の国会決議なのです。
(アイヌ民族やその生活文化のことを、身近に学んだりする為の資料の書棚が、西宮公同教会礼拝堂に置かれています)。
[バックナンバーを表示する]