1人の友人が亡くなりました。付かず離れずぐらいの距離にいたのですが、あることがきっかけで身近に付き合うことになりました。仕事や社会との折り合いの付け方が上手いとは言えなかったものの、家族や友人に恵まれたのは、少し助けが必要で、そのことが家族や友人にとっていい意味での課題になっていました。結果、いい人たちに囲まれたいい人生を生きてきました。
「“時間をかけてじっと見つめていると可愛くなる”という気持ちが『愛(め)ずる』です」と書いていたのは「『生きている』を見つめる医療、ゲノムで読みとる生命誌講座」(中村桂子他、講談社現代新書)です。
幼稚園の畑では、大きく育ったひまわりが、ぽつりぽつり咲き始めています。前の年に咲いたひまわりが種を落とし、秋にたまねぎ畑になったりする時に、うまい具合に土にもぐりこんで一冬を過ごし、春になって芽を出し15~20センチに育った苗を、雨の後で移植し、ということを繰り返して咲いているひまわりです。そのひまわりと同じ頃に蒔いたはぜとうもろこし(ポップコーン)は、芽を出したものの育っていません。どんどん成長するひまわりの葉っぱの影で、光とり競争に負けてしまった結果です。そうして花を咲かせているひまわりですが、より大きく育ち、より大きい葉っぱを広げ、より大きな花を咲かせる時、はぜとうもろこしの成長を許さなかったりはするのです。
ひまわりは、最初に種をまいた時の袋には“大輪一輪咲き”と大きく書かれていました。そして、確かに大輪一輪の大きなひまわりの花を咲かせました。その種が落ちた、2年目(3年目以降も)のひまわりは、成長するにつれ、茎と葉っぱの付け根から芽が出てきて枝になり、更にその枝からも枝が出て、たくさんの小さな花を次から次へと咲かせます。もう一度、大輪一輪の花を咲かせる為には、茎と葉っぱの付け根から出た芽をつみとり、すっきり一本だけにして育てます。春になって畑を訪れて見つけたひまわりの苗を子どもたちは見下ろします。しばらくたって訪ねた時、子どもたちの背丈に達しているのにびっくりします。そして、またたく間に子どもたちの背丈を越え、3メートルくらいに伸びたひまわりの、大輪一輪咲きの花を子どもたちは見上げることになります。そうして咲いているのを見上げたひまわりは、次に訪れた時には、花びらがしおれています。その隣りではもう一つ別のもう一本の大輪一輪のひまわりが咲き始めています。
大輪一輪咲きにせよ、たくさんの小さな花を咲かせるひまわりにせよ、そこを繰り返し訪ねた子どもたちが心に刻むのは、ひまわりはもちろん、自分もまた“生きている”ということです。
西宮公同教会に転会することになった友人と身近に付き合うにあたって、少なからず“助け”を求められていたのでしょうが、結果的にはほとんど答えられなかったことを残念に思っています。その友人の、その時、その時のたたずまいのことが記憶に残っています。そんな時の友人が残していった印象は、“生きている”ということでした。
生き方の上手、下手ということでは、多分友人は上手ではありませんでした。しかし“生きている”ということは、生き方の上手、下手では計り切れないものがあります。少し“助け”が必要であった友人の場合、家族や友人にとって“彼”と一緒に生き続けるという、“課題"を与えられることになりました。そうして課題を与えられて生きることを共有した時間の結果、見つめ、心に刻み込むことになったのが“生きている”ということでした。
“生きている”ということは、どこか遠くにある何かではなく、特別に語るに足る何かでもなく、いい人たちに囲まれて生きたことそのものであるように思えます。心にとめるものが一つでもあれば、心にとめてくれる人が1人でもいれば、それは“生きている”ことであるという意味においても。
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