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2008年07月04週
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 2008年7月14、15日に開催された日本基督教団常議委員会は、北村慈郎紅葉坂教会牧師の“戒規処分申立”を決定しました。申立を受けるのは教団教師委員会で、戒規処分の内容もそこで決まります。そして、内容は“停職”“免職”などで、それは「日本基督教団教師としての職務執行を停止(免職)するものであり、教会担任教師としての、職務も当然これに含まれる」となっています(戒規処分申立書、2008年7月14、15日)。
 事の始まりは、紅葉坂教会及び北村慈郎教師が教会の決定で「未受洗者への配餐」を行ってきていることです。このことで、戒規処分申立をした山北宣久教団議長は「洗礼を受けた者が、もう一つの聖礼典である聖餐にあずかる」「洗礼を受けた後に聖餐にあずかる」と固く信じてそれをしました。その場合の“根拠”は、日本基督教団の教憲第1条、2条だといいます。
 
 第1条「本教団はイエス・キリストを首と仰ぐ公同教会であって、本教団の定める信仰告白を奉じ、教憲および教規の定めるところにしたがい、主の体たる公同教会の権能を行使し、その存在の使命を達成することをもって本旨とする」
 
 第2条「本教団の信仰告白は、旧新約聖書に基づき、基本信条および福音的信仰告白に準拠して、1954年(昭和29年)10月26日第8回教団総会において制定されたものである」
 

 この場合の教憲第1条、2条は、そのままで“洗礼を受けた後に聖餐にあずかる”それに反した場合は戒規処分が適用される、とはなりにくいのです。しかし、そこは強引に「未受洗者に配餐することは、契約共同体としての聖餐を空しくすることであり、明らかに日本基督教団教憲第1条、第2条に違反し、日本基督教団の秩序を紊す行為に該当し」“戒規処分申立”をすることになりました(戒規処分申立書)。
 

 しかし、多分、きっと、間違いなくこの申立は、全くあり得ない訳ではありませんが無理があります。なぜなら、申立の根拠となっている教憲(教規)が定めていることは確かだとしても、それを支え根拠付けているのは、一人一人の“信仰”であったり“告白”であったりします。あるいは、一人一人の“信仰”や“告白”を根拠にすることでしかあり得ないのが教憲(教規)であったりします。ということは、教憲(教規)に関する限り、それにどのように関わろうと、“秩序を紊す行為”であるとして、“戒規申立”をすることにはなりにくいのです。もし、今の時代に信仰や告白という人の心の中身を問答無用で断罪することが可能であるなら別ですが。
 

 そもそも、教憲(教規)の定めていることを守るか守らないかはたいした問題ではありません。そんなことを、誰よりも明確に言葉にして生きたのは、教憲(教規)で信仰・告白されているイエスに他なりません。安息日に空腹であったイエスの弟子たちが麦の穂を摘んでとがめられた時、イエスは「・・・あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である」と反論します(マタイ福音書12章6〜8節)。ここで言われている“わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない”について、そのことを言及しているイエスは、これがたいした問題ではないと考えてはいません。たとえば聖餐のことで、それが“教会の権能”の故に、未受洗者を拒むとするなら、“わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない”という、イエスの言葉によって逆に断罪されるに違いありません。
 

 「あるときなど感極まった司祭が、かりに世界中のすべての病いと世界中のすべての戦争、世界中のすべての悪が、あるひとつの小罪を犯すことで防げたとしても、その小罪は犯すべきでないと言い放った。道理の合わない話である」と書いてあったのは、「ジェームス・ジョイス」(エドナ・オブライエン、岩波書店によれば、ジョイスはあれこれ“小罪”“大罪”の人だったのだが)です。“未受洗者への配餐”という、あるかないかの“小罪”が、日本基督教団では大問題になります。当然こんな“小罪”に頑張る人たちの目には世界の大問題は何一つ見えないにひとしくなっています。
 “未受洗者への配餐”は、多分、きっと、間違いなく教憲(教規)を“紊す”ことなのだと思います。しかし、同じように間違いのないのは、それがとるに足らない“小罪”にすぎないことです。
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