西宮公同幼稚園の子どもたちも“川あそび”に出かける川―都賀川(神戸市灘区)の増水で、子どもたちが亡くなりました。街の人たちの願いがかない、川の改修に成功し、人が川の自然と親しめるようになった、阪神間では貴重な川が都賀川です。その都賀川で増水による事故が起こってしまいました。このあたりでも、ほんの20~30分の激しい雨で、街の中の小さな川は増水し濁流になって流れます。教会、幼稚園の前を流れる津門川も、28日午後のような激しい雨で増水し濁流になって流れていました。そんな時の津門川は、鯉や鯰がゆったりと泳ぐ普段の津門川ではなくなってしまいます。津門川の上流地域は、現在も空き地開発が進んでいます。水を保つ森はもちろん、田んぼや畑も年を経るごとに少なくなっています。結果、20~30分の激しい雨で、津門川は増水し濁流になって流れます。都賀川の場合も同様です。結果、子どもたちなど5人の生命が奪われる事故になってしまいました。
うまく逃げれば、事故は防げたかもしれません。しかし、激しい雷をともなう激しい雨の避難が事故になってしまいました。街の人たちの願いで、街の中に取り戻したはずの自然が、大きな事故になったのは残念でなりません。
教会学校のキャンプの1日目、21日の夜遅く炊事場で休んでいたところ、駿君が「ひぐらしが羽化しはじめている」と知らせに来ました。置かれていた丸太のイスに登ってしまい、低い位置で羽化を始めてしまったひぐらしは、5~6人の子どもたちが見守る中、既に半分くらい白っぽい体が抜け出してぶら下がっていました。不安定な丸太のイスに、思わず手を触れたりする子どもが現れたりすると、見守っている子どもたち全員が押し殺した声でブーイングをします。ゆっくりと体の2/3くらい抜け出して、ゆっくりと抜け出したひぐらしの足が乾いて茶色く変わってくると、いよいよ“反転”の準備が始まります。慎重にその時をうかがっていて、びくっと動いたりする様子に、誰からともなく「落ちたらどうなる」と、うめくような声が聞こえます。見つめている全員、落ちてしまったら簡単には這い上がれないこと、羽化は失敗してしまうことを知っています。「おれ、きょう、羽化に失敗したやつ見た」とつぶやく子どももいて、小さな声で口々に「がんばれ」「がんばれ」と応援するのでした。
そして待つこと40分、“反転”しはじめたひぐらしが自分の足で、抜け殻の上部をがっしりとつかみ、最後まで残っていたおしりの先が抜けると、子どもたちは小さなハクシュで「おめでとう」「おめでとう」を言い合うのでした。
ひぐらしの羽化は、キャンプ場の夜のあっという間に過ぎて行った小さな出来事でした。けれども、反転してぬけがらをつかむ前におしりの先が抜けて落ちてしまえば、小さな生命の小さな出来事が終わりになってしまうことを、見つめていた子どもたちの誰もが、どこかで少しは覚悟していました。覚悟していたのだと思います。その時の、子どもたちの目近で繰り広げられていた、小さな生命の小さな営みに、誰も手出しができないことを、子どもたちも知っていました。あるいは、小さな生命の小さな営みは、どんな他からの手助けも拒んでいるように見えました。うまくいくにしても、うまくいかないにしても、ひぐらしの羽化はその小さな生命にしかなし得ない営みだったのです。そんなことに気付いている子どもたちは、小さなブーイング、小さながんばれ、小さな拍手で応援したのでした。そして、羽化を成功させた、その時のひぐらしの営みは、“奇跡”そのものであったように思えました。
たくさんの人工を可能にしたとしても、人もまた自然の営みの中の一つとして生きています。1人の人が誕生するのは「私たちの細胞の中ではたらくゲノムには38億年の実績」(「『生きている』を見つめる医療、ゲノムでよみとく生命誌講座」中村桂子)があってのことだとすればひとりの人としての誕生がそもそも“奇跡”というよりありません。抱いてもらったこと、声をかけてもらったこと、おっぱいを飲ませてもらったこと、全くすべて人の手を借りてしか生き延びられなくて、生き延びることができたのも“奇跡”です。そして、生きる術の少しずつを覚え、人をつなぎ、人につながれるということを通して、その人にしかない生命の営みを成し遂げてきたのも“奇跡”です。
そうして生きてきた5つの生命が西宮公同幼稚園の子どもたちも“川あそび”に出かける都賀川の自然によって失われてしまったことを悼みます。
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