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小さな手大きな手

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2008年08月01週
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 「神無き月の十番目の夜」などでファンをすることになった飯島和一の「出星前夜」(小学館)が出版されていることを新聞広告で知りました。ついでに、不覚にも4年前に出ていた「黄金旅風」が既に文庫化されているのを知って、大急ぎで読むことになりました。「出星前夜」は“天草・島原の乱”に真正面から挑んだ物語で、「黄金旅風」は、その前史を描いた物語です。乱というにはあまりに無残で、殉教というにはあまりに悲惨な、天草・島原の乱のことには、距離を置くようにしてきました。なのに、この2冊で無残で悲惨な天草・島原の乱のことに、少しはまることになりました。無残で悲惨であるということで、手元でそのままになっていた石牟礼道子の「アニマの鳥」(筑摩書房)と「煤の中のマリア」(平凡社)も読むことになりました。
 

 天草・島原の乱の概略は以下の通りです。「1637〜38年(寛永14〜15年)天草および島原に起こった百姓一揆。キリシタン教徒が多く、益田四郎時貞を首領とし、その徒2万数千が原城址に拠り、幕府上使として派遣された板倉重政はこれを攻めて戦死、ついで老中松平信網が九州諸大名を指揮して城を攻落」(広辞苑)。前掲の本を読んだりしたにわか勉強で、天草・島原の乱のことを補足説明してみます。この百姓一揆の“旗印”には白地に十字(架)が描かれ、鬨(とき)の声は“サンティアゴ”であったと言われます。白地に十字(架)を旗印にするのはキリシタン農民を中心とした一揆であることの誇示です。それは島原・天草の地域的な一揆であるだけではなく、徹底した弾圧でキリシタンを禁止していた徳川幕府に対する否の宣言も意味しました。そんな農民一揆の鬨の声の“サンティアゴ”は、9世紀のイベリア半島でイスラム勢力と闘うキリスト教勢力を守護するシンボルとして崇められた聖ヤコブのスペイン語・サンティアゴに由来します。“その徒2万数千”と言われるおよそ28000人が原城址も立て籠もり幕府軍と対峙して2ヶ月余り文字通り“全滅”します。一揆勢は原城址に立て籠もるにあたって、乳幼児・老人の多くを“殺害”した上でそれに加わりました。生きて原城址から出ることを考えていなかったのです。老中松平信網を指揮官とする九州諸大名の兵約12万人が原城址を包囲、“干し殺し”作戦もあって一揆勢は力尽き、生き残った者もすべて斬首となり全滅します。一般に一揆ではなく、キリシタンを旗印にした徳川幕府に対する反乱と見なされた為、“全滅”は至上命令だったのです。
 

 そんな無残で、悲惨な天草・島原の乱のことには、たとえ書かれたとしても、読み手を萎えさせずにはおきません。そんな萎えさせるよりない出来事の、天草・島原の乱に挑んだのが、石牟礼道子と飯島和一の前掲の四冊の物語です。天草・島原の乱は、20年に及ぶ藩政の理不尽の限りを耐え続けた民衆の「最後の矜持を守るための破滅の道」でもあり、そのままおよそ28000人が“破滅”することになりました。その時の、そんな乱のことを描いて、読むに堪える物語として誰が描けるのだろうか。その時の、そんな乱のことは、少しでも確かなこととして描き伝えようとすれば、乱というにはあまりに無残で、殉教というにはあまりに悲惨であるが故に、読み手を萎えさせずにはおきません。「黄金旋風」や「出星前夜」の場合も、「煤の中のマリア」や「アニマの鳥」の場合も、著者たちは懸命に取材して得た資料を目にして、400年近く前に起こったその出来事に、誰よりも自分たちが萎えてしまわざるを得なかったはずです。しかし著者たちは、天草・島原の乱を描いて、最後まで読み手を惹き付けずにはおかない物語を作りあげました。自分達の生きたことの結末が破滅であった、破滅した人たちを描いた物語、およそ28000人の破滅の物語であるのに、読み手を萎えさせることがありません。それは、破滅であったとしても、その人たちの生きた軌跡を、克明にたどって描いた、著者たちの姿勢によって可能になったように思えます。
 

 原城址にこもった一揆勢およそ28000人は、約12万人に包囲されて、2ヶ月あまりを持ちこたえます。一揆勢は弱くはなかったのです。たとえば、原城址にこもった一揆勢は攻撃に対して銃で応戦します。その一揆勢の銃が、最初に攻撃を指揮していた板倉重政を戦死させます。使われた火縄銃は、それを生活の道具として普段から手入れし、更に弾丸や火縄なども手作りする技術、使い方にも習熟していたからこそ、それを使って応戦できたのです。原城址にこもったのは、破滅を待つ烏合の衆ではなく、人として“最後の矜持を守る”ことの意味を知る人たちだったのです。著者達が、全く萎えてしまうよりない出来事を、全く萎えてしまうことのない物語として描き得たのは、自分たちもまた最後の矜持を守る人だからに違いありません。
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