子どもの頃に育った村(富山県氷見市一刎、能登半島の付け根、石川県境の海抜約200メートルの農村)の湿田の村の平均耕作面積は4反でした(1反は10畝、300坪、約990平方メートル)。父の教師の仕事とは別に、約4反の田んぼの稲作と野菜を作ったりするのは母の仕事でした。
その当時の稲作は、苗の手配や田植え、田んぼを耕すのも稲刈りも、すべてがそれぞれの農家の手作業でした。種もみを布製の袋に入れ、ぬるくなった風呂に一晩漬け、発芽しやすくして苗床にまくところから、その年の稲作は始まりました。その頃は、ビニールシートがなくて、破れやすい油紙で保温し、少しでも早く苗を育てる工夫がされていました。寒冷地ではありませんでしたが、稲作可能な期間が限られていて、苗作りにもそんな工夫が求められたのです。いずれにしても、春・秋の気温、水温の低い湿田で、腰まで水に浸かってする稲作は重労働でした。
3月末、雪のとけた田んぼで株を割り込み、鍬だけが田起こしの道具でした。田起こしの後、水をはってならし、畦(あぜ)をぬるのは、誰でもというわけには行かなくて、熟練した名人の仕事です。ならした田んぼの水が澄んだ頃を見はからって、木枠をころがして苗を植える位置を決めて田植えです。平均4反の村の田んぼでしたが、田起こしも、田植えも、共同作業でしか間に合いませんでした。
梅雨の長雨に悩まされたのにも関わらず、夏になると田んぼの水の確保に大変だったりします。そして、そんな田んぼで子どもたちの楽しみは、鯉の稚魚の放流でした。2~3センチの稚魚は稲刈りの終わる頃には、10~15センチの幼魚になっていて、子どもたちも田んぼの中を追い回して手づかみし、ため池に放流されました。しかし、除草剤や農薬を多用するようになった田んぼでは、そんな“行事”もなくなってしまいました。10月ごろになってしまう稲刈りは、秋の雨や台風との競争でした。やはり、腰まで水に浸かって稲を刈り、たっぷり水を含んだ稲束を山のように田舟に積んで押して運ぶのも重労働でした。その稲束を10段ぐらいのはしご状の棚にかけ終わる頃、日は暮れかけていました。そうして日が暮れるまで働いて、体の芯まで冷え込んだ母親の為に、子どもたちはマキをたいて風呂をわかすのが仕事でした。干した稲束を田んぼから納屋に運んだりする作業は、小さい子どもたちも例外なく手伝いに狩り出されました。脱穀、モミすりの終わった玄米を1俵(60キロ)分入れる米俵も、ワラで編んだものが使われていました。その米俵を編んだりする母や父の夜の作業を、子どもたちは囲炉裏ばたで感心しながら眺めていました。4反の田んぼで収穫した米が米俵に入れられて、自家消費を除いて、約20俵分くらいが農協に“販売”されていたように記憶しています。肥料、農薬代などを差し引いたとすれば、そこからの現金収入は、ほとんど期待できませんでした。ですから、村の男たちの大半は、米の収穫が終わった11月から翌年の3月まで、日本全国の土木工事の現場に出稼ぎ労働者になって村を離れていました。
そんな具合にして米を作っていた日本の小規模の農村で農業をする人たちが激減しています。米を作る労働がなかなか大変で、それに見合う報酬が得られにくいことや、そもそもそんな労働が好まれなくなっているなどのことがその理由とされています。
2007年度に国内産の米60キロ(1俵)の政府の買入価格は14265円だったのとの事です。輸入米が100キロ約10,000円ですから、米そのものの価格としては国産米はほぼ2倍ということになります。更に国産米の小売価格は60キロで約22,000円です。結果、国産米は“高い”ということになっています。“安い”輸入米があって、それと比べると“高い”のが国産米なのです。“高い”ことだけが問題になって、この国で“米を作る”ことの意味はほぼ全く考慮されません。ではなくて、国内産の米60キロが政府によって14,265円で買い取られているのは、米を作っている人たちの現実からすればずいぶん買い叩かれてしまっている事実が問題なのです。“高い”とされる国内産の米60キロで、約1,000杯のご飯になるとして、1杯は22円です。食パンが値上がりして、1斤、5枚切りが約200円として、一枚40円です。なのに同じ主食になるご飯いっぱい22円が“高い”と見られてしまっているのは、あくまでも安い輸入米と比較してのことなのです。
モノの値段は、必要からだけではなく、その社会と人とが持ってしまった価値観に大きく左右されます。一杯のご飯の主食としての値段からすれば、高くはないはずなのに、“高い”と見なされるのは、その為に流された汗のことが見えなくなってしまっているからです。
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