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2008年11月01週
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 西宮公同教会に、関西学院大学神学部の学生だった頃(1996年〜2002年)顔を出していた市来伴子さんが、衆議院議員の候補者として立候補する(兵庫8区)ことになったと挨拶に来ました。選挙があれば投票に行かなくはありませんが、その為の政治に、投票以上の関わりを持ちませんでした。その政治に、若い市来伴子さん(31才)が深く関わる危なっかしさに、少しだけ口出しをすることになりました。日本という国の貧しさは(あれこれ、いろんな意味で貧しい)、政治というものに深く関わっています。例えば狂牛病が問題になって、食用にされる牛の全頭検査が避けられないことになりました。理解不足なりに狂牛病の由来をたどってみる時、狭い限られた地域で起こっていた羊の病気が“共食い”させることで広がることになったことを知ります。スクレイビーと言われる羊の病気が、その羊を羊に食べさせることで羊の間に広がり、その羊を牛に食べさせることで更に牛の間に広がり、その牛を牛に食べさせることで牛の間に広がり、その牛を人が食べることで広がったのが人の狂牛病と言われます。“共食い”で広がってしまった狂牛病は、その潜伏期間などのことから広まり具合の確認は困難で、一番確実な検査方法は全頭検査ということになって、それが実施されることになりました。なのに、牛肉輸出・入をめぐる超大国との貿易に関する力関係を理由に、政治によって全頭検査は取りやめになってしまいました。政治が、この国の人の生命を守る力として機能しなくなっているのです。
 

 というような政治の状況で、若者に限らず政治をしようとする時、既にある政治の言葉にからめとられます。たとえば、たまたま自分が属することになった政治党派の言葉を、そのまま自分の政治の言葉として語ってしまっていることの危なっかしさを、この若者に感じてしまいます。この若者の政治課題の一つに“ワーキングプア”や“食料・環境”などのことがあげられています。そしてこの市来伴子さんが政治で“めざす社会”は「ワーキングプアの雇用不安を解消する対策を進めている」こととして示されます。それはまるで、いままでの政治が政策を語る、政治なら誰でも異口同音に語る言葉としてしか聞こえません。政治を語る若者の自分の言葉は、その場合のどこにも見当たらないのです。働いても働いてもその日暮らしで、生活の基盤が整えにくい若者などが増えてきている状況を、誰かがワーキングプアと呼ぶことにしました。短期間の労働力の売買を幅広く認める派遣・契約などの労働形態を政治政策的に作ってしまった結果の事実であったとしても、立ち止まって考えて、時には異議を申し立てる人を育てることをしなかったこと、そのことの結果生まれてきたのが、言うところの“ワーキングプア”です。資源などの乏しいこの国で、限られた人たちだけが豊かさを享受することにすれば、働いても働いてもその日暮らしで生活の基盤を整えられないまま放置される若者が続出するということはあり得ることです。だからと言って、立ち止まって考えて、時には異議を申し立てる言葉を紡ぎだす人を育てるようには、政治はしてきませんでした。せいぜい「ワーキングプアの雇用不安を解消する対策を進める」という政治の言葉を語り続けるだけでした。じゃなくて、若者が政治ということで問われているのは、立ち止まって考えて、時には異議を申し立てるという面倒なことを、自分の生活の言葉として語ることです。そもそも、立ち止まって考えて、時には異議を申し立てることをしない国の若者は“ワーキングプア”にでもなるよりなかったのです。そんな意味での“ワーキングプア”を代弁する政治は、更にそれを助長するしかありません。政治が普通に生きる人の政治課題を代弁し、政治の言葉で語ってしまうとすれば、そんな政治こそが人を貧しくします。人が、安易に政治の言葉に自分をゆだねてしまえば、結果はすべてにおいて貧しくなります。それが、“ワーキングプア”です。そして、その言葉で何よりも愚弄されているのは当事者たちです。働いても働いてもその日暮らしであるとしても、その貧しさを身近な誰かと共有しあうことは不可能ではありません。たとえば、安価な食材を求めて出会った市場の商店の“おばさん”と生活の言葉を交わしあう機会があるだけで、その生活は貧しいだけとは言えません。貧しいのは、そんな出会いを見つけたり喜んだりすることのできなかったりすることです。
 

 というような出会いを自ら見つけ、時にはその喜びを自分の生活の言葉として政治の場で語る時、それは政治党派の言葉としては聞こえないはずです。という、“自分の言葉で政治を語る”ことについて、若い市来伴子さんと少し話し合ったりしています。
 

 そして、そんなことを更に市来伴子さんと話し合う集りの為、あるキリスト教会の一部屋を貸して欲しいとお願いしましたが、断られてしまいました。“政治”に関与していると見られるのは、好ましくないというのがその理由でした。そうして政治が市民権を持たないで、政治党派の政治だけがまかり通っていて、だからと言って自分の言葉で政治を語ることには、この社会は尻込みしてしまいます。たとえば、政治に尻込みすることで、自分たちのキリスト教は守られるらしいのですが、たぶんそんなキリスト教を守ることも、そんなキリスト教によって守られることも、同じように貧しいように思えます。そこには、政治に自分の言葉が不在なように、そのキリスト教にも自分の言葉が不在なのです。
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