高杉一郎のことは、フィリッパ・ピアスの児童文学の翻訳者ということで、知ってはいました。「トムは真夜中の庭で」「幽霊を見た10の話」「ライオンがやってきた」「ペットねずみ大さわぎ」「サティン入江のなぞ」「こわがっているのはだれ」の少し長い“訳者あとがき”に、「・・・その後、彼女(ピアス)の作品の日本語への訳者がどんな人間か知ってもらおうと思って、わたしの『極光のかげにーシベリア浮慮記』の英訳原稿を彼女の自宅に送り届けたりした」とあったのに、そんなに気にしていませんでした。その高杉一郎の「わたしのスターリン体験」(1990年“岩波同時代ライブラリー”2007年岩波現代文庫)を読むことになりました。そこでも触れられていた「極光のかげに」のことや、高杉一郎のことを「若き高杉一郎」(太田哲男、未来社)で、少し詳しく知ることになりました。高杉一郎(本名、小川五郎)は、1945年8月に、太平洋戦争が敗戦に終わった時、関東軍兵士としていた“満州”から、日本に帰還することなく、「『バイカル湖の西方に広がるイルクーツク州』の、シベリア鉄道のタイシュット駅から少し北に入った、ニューベルスカヤの捕虜収容所」に送り込まれることになります。それから1949年9月までの4年間の捕虜としての経験が「極光のかげに」として書かれることになりました。ほぼ同じ4年間の捕虜としての“バイカル湖西岸のバム”での経験が、石原吉郎の「望郷と海」(筑摩書房)です。高杉一郎や石原吉郎が、シベリアで捕虜の経験をすることになった、他の日本人と異なっているのは、“政治犯”としての形が架せられたことです。捕虜収容所ではロシア人の“囚人”と過ごすことになりました。その時の、ロシア人の囚人が問われていたのは“祖国に対する裏切り”でした。“祖国に対する裏切り”は、そのまま“スターリンに対する裏切り”を意味したのですが、高杉一郎と石原吉郎も、ソ連国籍でもロシア人でもないのに、問われたのは“政治犯”としてでした。そこで、一緒に“囚人”として過ごすことになったロシア人の場合、様子は少し違っていました。彼らの場合は、収容所の囚人になれたのは“幸運”でした。しかし、“幸運”ではなかった多くのロシア人は政治犯として囚われる前にさっさと殺されていました。その政治犯の“銃殺”“強制労働”を計画し、実行していたのがスターリンとその同志たちでした。「わたしのスターリン体験」は、1930年頃から始まって、遂には強制収容所での体験にもなってしまう、高杉一郎のスターリン体験であり、スターリンとその体制についての論述です。スターリンは、1953年に死ぬまで“独裁者”としてソ連を統治し、その30年に、約2000万人のロシア人その他を殺したと言われます。殺した人たちの中には、かつての“同志”“同志を殺した同志”もいたりしました。どうして、そんなことを“同志・仲間”であったはずの人を止まることを知らず殺し尽くすことが起こってしまったのか。
スターリンの独裁は、独裁者であるスターリン一人によって築かれたわけではありません。ロシア帝国を倒し、労働力の国家ソヴィエト社会主義共和国を誕生させたことは、正しいことであって守らねばならないこととされました。しかし、その正しさを守る指導者として勝ち残ったスターリンは、ひとりの人としての正しさではなく、正しい国家の、正しい主義の、正しい指導者として、自分の地位の絶対化をはかることになりました。そして今度は、絶対化された自分の地位を守り続ける為に、すべてをそのことに従属させます。独裁者スターリンです独裁者スターリンは、ただ一人歩きした訳ではなく、結果的にそれを認めることになった人たちに、独裁者と同じ道を歩ませることになりました。「・・・私たちはスターリンが人間であることをとうに忘れていたのだった。」(「エレンブルク回想録『人間・歳月・生活』」、「わたしのスターリン体験」より)。
どんな小世界であっても、大世界であっても、その成り立ちの全てが“全く正しい”ということはあり得ません。“正しい”があるとしても、あれこれ幅広く分布していて、“全く正しい”はそもそもあり得ません。更に不正義や悪も、その小世界、大世界にそこそこはびこっていたりもします。ですから、全く正しいことの主張が世界を作るのではなく、正しさだけではなく不正義や悪にも目を注いではじめて、人は世界の片隅に自分を発見することになるのです。
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