賃金は、労働の対価として支払われるものであること(マタイ福音書20章1~16節)、負債はそのことの責任が果たされない時に「獄吏に引き渡される」(同18章34節)など、“お金”をめぐる責任ということで、聖書の記述はあいまいではありません。
毎年11月第2土曜日に開かれる、子どもたちのお祭り“公同まつり”で、子どもたちはホンモノのお金で(現金で)買いものをします。その場合のお金・現金を、何の理由も根拠もなく与えたり、与えられたりするのではなくそれぞれの家庭の子どもたちとのやりとりや経緯があって、そのことが子どもたちにも了解されて初めて、現金が子どもたちに手渡されること、現金で買いものをしたりすることに意味があります。
お祭りの当日、お金を使い果たして“貧乏”になった子どもたち相手の、“えんちょうぎんこう”というものを店開きして、無利息、無担保でお金を貸し出します。その場合、借りることの意味、それは返済しなくてはならないものであることを、子どもたちなりに理解しています。お祭りに夢中になって散財し、使い果たした結果、もうこれ以上買いもののできない“悲哀”をいくばくか味わったこと、“借金”で自分が復活できたことを喜んで、子どもたちなりにお金の意味を理解します。
その時に、貨幣というものの価値うんぬんではなく、お金が介在する時の責任は“等価”ではかるものであることを、子どもたちなりに納得して了解しているのです。“タダ”はあり得ないのです。というようなことは、子どもたちの世界でも常識です。
「生活支援定額給付金」という、国民一人あたり12,000円を支給する景気対策が計画され、実施に移されようとしています。その為の総額が2兆円になるのだそうですが、そんなことを“不景気対策”として考えついた人がいて、言い出してしまって、決まってしまった政策なのです。しかし、“タダ”でお金を配ること、“タダ”でお金をもらうことが“不景気対策”になるとする理解は、少なからず変です。お金をめぐる力関係は、どうであれ“等価”であることが基本になっています。給付金の原資2兆円をこの国が、何の具体的な働きもなしに生み出すということはあり得ません。その為に時間をかけた、血のにじむ汗の結晶の数え切れない小さな資金が、2兆円になるのはたやすいことではありません。いいえ、たやすいことでないことが積み重なって初めて2兆円になり得たのです。なのに、そんな2兆円を“タダ”で配って、“タダ”でもらってしまうとしたら、少しではなくずいぶん変なのです。そもそも、そんな風に“タダ”で配ってしまえるのだとしたら、この国はちっとも不景気ではないはずです。どうであれ、あり余っていて初めて、“タダ”で配るなどということは起こり得ます。なのに、世の中は不景気です。“不景気だ”と言われています。で、身近な不景気をながめてみるのですが、誰のどの景気が、いつの誰のどの景気と比べて不景気なのかは、必ずしも明確でなかったりします。18歳で兵庫県西宮市で大学生をすることになった時、“財産”といわれるものは4、5冊の本と、学生服一着、2~3枚の下着、靴は多分一足だったと記憶しています。今、5000~6000冊の本、Gパンだけで40本、靴が6足、生活する家と家族などに恵まれていますから、“絶好景気”と言えなくはありません。あれこれ、すったもんだすることがあるにせよ、たくさんの人たちとの関係の中で、生きながらえている今を“不景気”などと口にしてはいけないはずです。そんな時に、誰かが定義したらしい不景気を理由に、“タダ”でお金をもらってしまうのは、まずいように思えます。なによりもそれが、“タダ”であったりすると、公同まつりの“えんちょうぎんこう”の子どもたちに対しても説明がつかなくなります。
申命記19章13節に「・・・日雇い人の賃金を明くる朝まで、あなたのもとにとどめておいてはならない」と書かれています。今、この国では“不景気”を理由に日雇い人が解雇されています。生活が不安定だった人たちが、“不景気”を理由にその不安定な生活さえ奪われようとする時、必要なのは“タダ”でお金をばらまくのではなく、たとえば日雇い人の仕事を取り戻すことに力を尽くすことです。
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