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小さな手大きな手

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2008年12月04週
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 ギリシア神話のミノタウロスが、半牛半人の醜悪な怪物として生まれることになったのには、「彼(クレタの伝説的な古い時代の王ミーノス)は王国を得たが、牡牛(ポセイドーンから贈られた)を惜しんで自分の牛群に加え、他の牛を海神に捧げた。ポセイドーンは怒って牛を凶暴にした。ヘーラクレースが捕らえた牛がこれである。また神はパーシバエーが牛に情欲を抱くようにさせ、彼女は牛に恋し、ダイダロスの援助によって牝牛に化け、交わった結果生まれたのが半牛半人の怪物(ミーノスの牡牛)すなわちミノタウロスである」という経緯があってのことです(「ギリシア・ローマ神話辞典」岩波書店)。半牛半人の怪物として生まれたミノタウロスは、怪物であるが故に、アテナイの王テセウスによって刺し殺されます(「ギリシア・ローマ神話1」、ダイダロスとイカロス、テセウスとミノス王、白水社)。
 

 そのミノタウロスが題材になった絵をピカソが描いています。「ミノタウロスの戦い」「ミノタウロスとヌード」などです(「パブロ・ピカソ」インゴー・F・ヴァルター、TASCHEN)。ピカソがミノタウロスをテーマに描いたのは、彼の闘牛への関心と関わりがあると考えられています。スペインの闘牛で"脅かされ、怒り狂う"ように仕向けられた牡牛は、あらかじめ予定された死としての止めを刺される、という意味で“死の儀式”そのものです。ギリシア神話のミノタウロスは、テセウスに託された魔法の剣で刺し殺されます。自ら醜悪な怪物であることを選んだのではないミノタウロスが、テセウスによって殺されるのは、そうなるよりなかった、という意味ではこれもまた死の儀式そのものです。殺される運命の闘牛の牡牛とミノタウロスへの関心が「ミノタウロスの戦い」「ミノタウロスとヌード」などの、ピカソの優れた版画になったと言われます。
 

 牛はピカソの「ゲルニカ」にも描かれています。大西洋に面したフランスとスペインの国境、バスク地方の人口7000の小さな街ゲルニカは、1937年4月26日「ドイツ軍の航空機50機、搭乗員120名、何千キロもの大型爆弾、焼夷弾、無尽蔵の弾薬を作戦に動員した」攻撃で全滅します(「ピカソの戦争―ゲルニカの真実」、ラッセル・マーティン、白水社).
その時のゲルニカで起こった、身の毛もよだつ惨状を描いたのがピカソの「ゲルニカ」です。殺された子どもを抱く母親の嘆きなどとは違い、静止して見える牛はもう一つ別のゲルニカの惨状を想起させるように見えます。
 

 2009年の“十二支”は牛です。牛は“古今東西”で話題になってきた動物です。年末になると南方熊楠の「十二支考」(上、下、岩波文庫)を引っ張り出してきてながめます。で、「十二支考」なのですが、“虎”から始まって“子”で終わっています。その理由は「1924年は子年であり、鼠の話は当然『太陽』にのる予定であったが、この前年関東大震災があって、その後雑誌の体裁が変更となり鼠の原稿は『太陽』に掲載されず、さらに加筆されてから『集古』1926年9月号と『民俗学』1930年1月号にそれぞれ分けてのせられた」(「十二支考」解説)で、“牛”については書かれないまま終わったようです。ということで、南方熊楠が語る十二支の牛を「・・・古今東西の説話をふまえて語る。その知識のパノラマ」で読めないのはとても残念です。
 

 毎年、たなばたの頃に子どもたちと読むのが「たなばた」(君島友子再話、初山滋、福音館)です。「たなばた」の悲劇の始まりは、“としとったうし”の「いま、てんにょたちが あまのがわへ みずあびにきています。そのなかの おりひめの きものを かくしてしまいなさい」という、“そそのかし”です。そそのかされて、おりひめの着物をかくし、うしかいはおりひめを妻にしてしまいます。しかし、そうして得た幸福の代償が小さいはずはありません。それは、うしかいにとってもおりひめにとっても大きかったし、そそのかした牛の場合は「しんだら、かわをはいで、きものをつくる」命を代償にすることでした。幸福というものは、代償なしにはあり得ないことを、子どもたちの物語は描くのです。
 

 そんな牛のことを、あらゆる意味で踏みにじるのが“狂牛病”です。狂牛病、それはもとは羊の病気・スクレイピー(狂牛病)でした。「その特徴は、まず、羊の行動が落ち着かなくなり、人が近付くと興奮したり、疾走したりする。次に、体毛が抜けるほど激しく身を木の幹や柵にこすりつける。しかし皮膚には発疹などはない。第三段階になると羊は自然に見放されたかのように愚鈍になり、群を離れ、よろよろと歩き、やがて横たわったまま、餌を食べられなくなり、衰弱死を迎える。一度かかるとこの病気は治らない」(「もう牛を食べても安心か」福岡伸一、文芸春秋)。同じ症状が牛の場合にも見つかって、更に人の場合にも同じ症状が見つかって、そこに食物として、その病気の羊の肉を牛に食べさせて、その牛の肉を牛に食べさせて、その牛の肉を人が食べて、人の“狂牛病”が発症することが解ってきました。“草食”であるはずの羊にスクレイピーが広がり、牛に狂牛病が発症することになったのは“人為”です。
 

 「ウシを家畜化し、ウシを育て、ウシを利用するという営みは、人間がウシの顔をたえずみつめてきたからこそ、成功をおさめてきたのである。・・・ヒツジであれなんであれ、ほかの家畜の処理遺体産物を、計画的、組織的にウシの飼養のプロセスに組み込むことは、ヒトとウシの付き合い方としては、道徳的一線を越える行為である、と感じられる・・・もはやウシの顔を見なくなった“傲慢な社会”の一面である」(「ウシの動物学」遠藤秀紀、東京大学出版)。
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