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小さな手大きな手

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2009年01月01週
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 ガザは、手もとの地図で見ると、南北約50キロ、東西は7〜15キロぐらいですから、西宮市(約100平方キロ)の6倍くらいの面積になります。南はエジプトとの国境、イスラエルとは3つの検問所がある以外約7メートルの高さのコンクリート製の"分離壁"によって封鎖され、地中海側も海上封鎖されています。パレスチナ人が居住する、ガザ、ヨルダン川西岸、東エルサレムを、イスラエルが完全封鎖することになった理由を、パレスチナ人による"武力攻撃"だとしてきました。しかし、それより何よりもパレスチナ人を追い込んできたのは、そうでなくても追い詰められ閉じ込められていたパレスチナ人の居住地のガザやヨルダン川西岸地域に、イスラエルが進めてきた"入植地"です。ガザやヨルダン川西岸のパレスチナ人の住居を力ずくで壊して、そこに入植したイスラエル人の恒久的な住居を作ってしまうのが入植地です。生活する場所と生活が力ずくで奪われる時、その圧倒的な力、武力に、その都度パレスチナ人は挑んで、そして敗れ続けてきました。挑んでは破れ、挑んでは敗れることを続けてきたパレスチナ人のガザを支配するハマスが、2008年12月24、25日に行なったとされる"迫撃砲攻撃"に対し、イスラエルにはガザを空爆することで応えました。西宮市の6倍くらいの小さな小さな自治政府国家の、更に分裂状態の小さな小さなガザからの反撃に空爆で応えて、2009年1月1日現在のパレスチナ人の死者は345人(1月3日現在430人)と言われています。そんなイスラエルの武力行使を支えてきたのがアメリカで、国際社会は、勝ち目のない反撃で、おびただしい犠牲者を出し続けるパレスチナ人の闘いを、結果的には見捨ててきました。見捨てられたパレスチナ人の新たな小さな小さな反撃が空爆され、更に見捨てられようとしています。
 

 知里幸恵が記録した「アイヌ神謡集」の序で「その昔、この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんと幸福な人だちであったでしょう」と書いた、"幸福な人だち・アイヌ"は、同じ序で「・・・昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行く手も見わかず、よそ様の御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの・・・それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう」と悲しむアイヌでした。しかし、そうして悲しむアイヌでしたが、"天真爛漫な稚児""美しい魂の輝き"のアイヌは、「アイヌ神謡集」で、1923年(大正12年)に彼女が書き残した時も、今も、魂が何において輝くのかを伝え続けてきました。
 

 「アイヌ神謡集」第一謡は、「梟(フクロウ)の神の自ら歌った謡『銀の滴(しずく)降る降るまわりに』」です。この神謡の"フクロウ神"の何よりの願いは"和解"です。「・・・人々は、何度も何度も手をすり合わせて、家の主人に罪を謝し、これからは仲良くすることを話し合いました。私(フクロウ神)もみんなに拝されました。それが済むと、人はみな、心が柔らいで、盛んな酒宴を開きました」。"仲良くする"そして"心が柔らぐ"ということは、ささやかな営みですが、それができない悲惨と比べる時に、何にも代え難いことを、神謡の謡い手たちは知っていました。更に、こうして実現する人の社会の和解を「・・・それで近い神、遠い神に、使者をたてて招待し、盛んな酒宴を張りました、席上、神様達へ、私は物語り、人間の村を訪問した時の、その村の状況、その出来事を詳しく話しますと、神様達はたいそう私(フクロウ神)をほめたてました」と、自慢するのです。
 

 知里幸恵の弟で「分類アイヌ語辞典」「アイヌ語入門」などの著者でもある知里真志保は「ユーカラ鑑賞」(知里真志保、小田邦雄共著、元々社)で幸恵の編集した神謡集の、中でも"銀の滴降る降るまわりに・・・"で始まる

 「梟の神の自ら歌った謡」を、「そこにはヒューマニズムの成熟がきわめて鮮明にみられている」と評価しています。"ヒューマニズムの成熟"を、ただ現象として楽観的に見ているのではなく、見ているのは「幸福の象徴神、フクロウ神を媒介にした、幸福への意味を、ここに発見しようとしている」更に「作者はメルヘンの情緒の中で説話し、なお抒情の流れの中で、在るべき人間社会をもとめる」ことです。"幸福"はたやすく手に入れることのできない"理想"なのかも知れません。しかし、"在るべき人間社会をもとめる"ことが、たとえば"フクロウ神"の神謡が「その冒頭のリフレーンから美しいメルヘンの風をおこして読者の耳 に快く響いてくる」なら、"幸福への意味"は全く無意味ではないし、"在るべき人間社会を求める"理想は全く空想ではないのです。
 
 銀のしずく 降る降るまわりに
 金のしずく 降る降るまわりに
 シロカニペ ランラン ピシカン
 コンカニペ ランラン ピシカン

 "フクロウ神"の神謡は、「私も人間達の後に坐して、何時でも、人間の国を守護(まも)っています。と、ふくろうの神様が物語りました」で終わります。そして、この"フクロウ神"の謡う"シロカニペ ランラン ピシカン コンカニペ ランラン ピシカン"は遠くパレスチナの人たちの"和解"とその希望への響きとして聞くことも、そんなに間違っていないように思えます。
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