14年前、M7.3、震度7の地震が兵庫県南部地方を襲い、結果的には6000人を越える人たちが死んでしまいました。ほんの短い時間とは言え、M7.3、震度7の自然の力は、それが有無を言わせない、破壊する力をもっていたという意味では暴力そのものです。そして、その結果6000人を越える人が死んでいた事実が判るまでには、ずいぶん時間が掛かりました。地震が起こったのは、1995年1月17日午前5時46分、死者など最初の被害状況の発表は午前9時50分で、死者22人、負傷者222人でした。死者22人、負傷者222人は、東西約50キロ、南北約7キロの兵庫県南部地方で起こった、極限の地震の被害の事実のほんの一部分でした。午前11時には死者96人、行方不明163人、午後6時には死者1042人、行方不明577人、負傷者は3569人でした。18日には死者2014人、19日には死者3130人、20日には死者4084人、21日には4612人と増え続け、3月になって死者5490人とほぼ確定することになります。その後、関連して死んだ人たちも加わって、兵庫県南部大地震の死者は6434人になっています。(示される死者のことは「河村宗治郎/被災者であり被災者といっしょに生きてきた河村宗治郎を語る」の年表による)。
イスラム過激派ハマスの暴力に対して、暴力で応じたのが、2008年12月27日から始まった、イスラエルによるガザ空爆です。と言うのがイスラエル側の空爆の理由です。空爆から20日間経って、2000回を超える空爆とその後始まった地上軍の攻撃で、1000人を越えるパレスチナ人が殺され、5000人近いパレスチナ人が負傷して、攻撃するイスラエルのアシュケナジ参謀総長は「まだなすべき仕事は残っている」と、イスラエル国会で述べています。(2009年1月15日、朝日新聞)。空爆が2000回を超えるパレスチナ自治区ガザは、南北約40キロ、東西約6~14キロ、約150万人のパレスチナ人が居住していると言われます。12月27日の空爆で205人が殺され、300人以上が負傷しました。その空爆の時にも、およそ15年前の1994年にも、更に6年前の1988年にも、ガザはイスラエルによって封鎖され、パレスチナ人の出入りは完全に制限されていました。12月27日の空爆の時も、それから20日間2000回を超える空爆が繰り返される時も、南北約40キロ、東西約6~14キロのガザからパレスチナ人であれ誰であれそこから外に出ることも入ることもできませんでした。「『ナバク(破局・災難)』と呼ばれる1948年の中東戦争以前、ガザの帯の地域に住む人は約9万人だった。そこに第一次中東戦争の結果、20万人の避難民が押し寄せ、キャンプ生活を始めた」ガザで、1988年にパレスチナ人は50万人を超えていました。(「パレスチナ日記」フアン・ゴイティソーロ、みすず書房)。20年後、2008年12月27日に空爆の始まったガザには、約150万人のパレスチナ人が閉じ込められていました。1988年のガザは2008年12月ほど厳しい封鎖の状況ではありませんでした。「イスラエル領土と海沿いに広がるガザ地区を分ける国境検問所では、ゲットーの外に生活の糧を求めに行く、農業・工業労働者を乗せた車を、兵士が入念にチェックしている。何しろ、このゲットーの貧困と、370平方キロの空間に、53万人が詰め込まれているという人口密度は、UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機構)によれば、世界の最悪の部類に入るのである」(前掲「パレスチナ日記」)。1994年のガザのパレスチナ人は、80万人を超えていました。ガザの封鎖は強化され「ガザ地区の住民も外国人訪問者も、イスラエルの許可及び承認無く、誰ひとりとしてパレスチナ自治区から出ることも、そこに入ることもできない」状態で、「ハマースやイスラム・ジハードのメンバーがイスラエルやイスラエル支配地でテロ行為を行う度に、両組織の闘士を裁き、その行動を押さえるという圧力が自治当局にかけられる」、その結果「イスラエルでの労働許可をもつガザ地区住民の数が8万人か8千人に激減・・・(これにより何十万人ものパレスチナ人が生活の糧を失った)」状態がガザでした。(前掲「パレスチナ日記」)。そこから出ることも、そこに入り込むことのできないパレスチナ人が生活するガザの人口は、2008年12月27日には約150万人です。"生活の糧を失って"失ったまま封鎖され、その結果更に住宅、食糧、衛生など生活のすべてが劣悪であることを強いられるガザが空爆され、ただでさえ劣悪な生活が破壊されていたとしても、攻撃するイスラエルの参謀総長は「まだなすべき仕事は残っている」と言ってはばかりません。
ガザに対するイスラエル軍の空爆開始から1週間1月3日には死者は430人、1月4日には450人、1月5日には死者512人、1月7日には死者635人、負傷者2900人、1月9日には死者774人、負傷者3200人、1月11日には死者885人、負傷者3600人、1月13日には死者930人、1月14日には死者975人、1月15日には死者が1000人を越えました。空爆される前に、既に劣悪な生活を余儀なくされていて、その劣悪な生活が空爆によって破壊され、1月16日には死者が1010人、負傷者は4700人のガザは、そこから出ることも、そこに入ることもできない、イスラエルによって完全に封鎖されたガザです。暴力によって土地も住居も生活も奪われガザで難民としての生活をすることになり、暴力によってそこから出ることも、そこに入ることも許されず、今、なすがままの暴力にさらされ続けているのがガザのパレスチナ人です。「アシュケナジ参謀総長は13日、国会(イスラエル)の委員会で、先月27日の攻撃開始以降、2310回の空爆を行ったことを明らかにし、ガザを支配するイスラム過激派ハマスに大きな打撃を加えたと報告したが『まだなすべき仕事は残っている』とも述べ、攻撃続行の必要性を訴えた」(前掲1月15日朝日新聞)。と述べられ攻撃されている"イスラム過激派ハマス"なのですが、たとえば2310回の空爆を迎え撃ったりするような武器を装備している訳ではありません。そこから出ることも、そこに入ることもできないという意味では"イスラム過激はハマス"も他のパレスチナ人と何一つ変りません。イスラエルの"暴力"によって完全にガザに閉じ込められている"イスラム過激派ハマス"にできそうなことは、極々限られています。たとえば、「ガザを支配するイスラム過激派ハマスの戦闘員も自爆用の爆弾を身につけて攻撃を仕掛け、戦闘は激しさを増している」程度のことしかできないのです。"自爆用の爆弾を身につけ攻撃"なのですが、それで、空爆する戦闘機に反撃できる訳ではありません。自爆用の爆弾で自らこなごなになるだけです。圧倒的な軍事力・暴力でなすがまま、なされるがままにされてきたパレスチナ人がガザに集められて、そこから出ることもそこに入ることもできないで、圧倒的な軍事力・暴力で劣悪に生活を強いられて、圧倒的な軍事力・暴力に対して、たとえば"自爆用の爆弾を身につけ"て、無残な闘いをいどんでいる、それが2009年1月15日のガザなのです。そして、更に無残なのは、圧倒的な軍事力・暴力で殺された人たちを葬ることもできないまま、圧倒的な軍事力・暴力で負傷した人たちに必要な治療を施す元々が劣悪な医療施設までもが圧倒的な軍事力・暴力によって攻撃され破壊されていることです。更に無残なのは、そこから出ることも、そこに入ることもできないガザに対する、圧倒的な軍事力・暴力の行使が、今も続いていて1月17日には死者1143人、負傷者5130人に達していることです。
M7.3、震度7の地震でなす術もなく6434人の生命が奪われたとすれば、その場合の自然の力は暴力的です。ミャンマーのサイクロン、四川の地震でも、なす術もなくなぎ倒されるように人の生命が奪われて行きました。その場合の自然の力も暴力的でしたが"悪意"が働いていたわけではありません。しかし、人は止まるところを知らない悪意で、人の生命をこなごなにする暴力の行使を辞さなかったりします。
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