日本キリスト教団西宮公同教会・西宮公同幼稚園
教会について
礼拝・諸集会のご案内
小さな手・大きな手
公同通信
教会学校について
公同幼稚園について
どろんこと太陽
関西神学塾:スケジュール
関西神学塾:講師紹介
楽しい学習
賃貸住宅事業部とは
テナントについて
活動内容
アートガレーヂについて
催し物のご案内
リンク
アクセスマップ
お問い合せ
width=1
top>小さな手大きな手
width=639
小さな手大きな手

height=1
2009年02月01週
height=1
 1月31日(土)、武庫川河川敷で“たこあげ”をしました。あげたのは、1昨年講習会で作った“大型彦一だこ”と今年の講習会で作った“飛行機だこ”です。
 

 “彦一だこ”は、35、6年ほど前に出入りしていた神戸元町の歯医者さんの待合室に置いてあった、製薬会社のパンフレットで見つけたたこです。そんなたこを作っている千葉県佐原(だったと思う)の歯医者さんがいて、その人が設計して、その人の名前をとって“彦一だこ”になった、と紹介してありました。彦一さんは、たこ作りもたこあげも本気で、3000メートルの糸を用意して海岸に出かけ、日がな一日その彦一だこをあげていたそうです。3000メートルの長さの糸で、たこあげをすると、糸まきから糸をもどして、糸を巻き上げるのにハンパではない時間がかかってしまうのです。
 

 製薬会社のパンフレットには作り方(図面)も紹介されていました。世話になっていた薬局で、出入りの製薬会社の人に頼み、そのパンフレットを入手し“彦一だこ”を自作し、武庫川河川敷であげ、その見事なあがりっぷりに驚きました。用意した800メートルの糸を全て使い切りました。そんなによくあがる彦一だこの特徴は、①ぐらぐら②垂直尾翼を取り付ける③糸目は“一本”などです。
 
 ①ぐらぐら
 90センチ、60センチ、40センチの竹ひごを“十文字”に糸 で結ん だものが本体になります。もちろん、このままではぐらぐ らですが、竹 ひごの端を順に糸でつないで固定します。それでも ぐらぐらです。その 全体に和紙(障子紙)を貼りつけるのですが、 竹ひごにははらずに、糸 だけをくるむようにはります。やはりぐ らぐらです。
 ②垂直尾翼
 そうしてできた本体に、障子紙をはった直径約20センチの円形 の垂直 尾翼を取り付けます。普通のたこの“しっぽ”なのですが、 彦一だこの この垂直尾翼は、完璧にその役割を果たします。
 ③糸目糸一本
 たこは、左右のバランスをその時の風の強弱などにより数本の糸 目糸を 取り付けますが(やっこだこは三本)、この調整が上手く いきません。 彦一だこは中心になる90センチの竹ひごに、糸目 糸を一本(一箇所) 取り付けるだけで、バランスが取れてしまい ます。
 
 “ぐらぐら”も“垂直尾翼”も“糸目糸一本”もすべてはたこあげのたこの生命線で、これがうまくいけば3000メートルは夢ではないのです。
 
 一昨年のたこ作りの講習会では、その彦一だこの“大型”(全長150センチ、巾90センチ、60センチ、垂直尾翼直径30センチ)を作ることになりました。その大きさに耐える太さと長さの竹ひごは、市販では手にいれにくい為、淡路島の兵庫教区の平安荘キャンプ場の竹で手作りすることになりました。
 

 出来上がった全長150センチの彦一だこはそこそこの重量になります。たこあげ“日和”は、晴れていて風が強いことですが、晴れていると風が弱いのが普通です。1月31日の天気予報は雨でした。前夜が雨で、朝も少しぱらついたりしましたが、たこあげ大会の武庫川河川敷ではなんとかお天気も持ちこたえ、風もそこそこ吹いていました。公同なべを煮込んでいる合間に、大型彦一だこをあげてみましたが、用意した200メートルのたこ糸分全部を使い切りました。河川敷はこの日、市内の中学生の駅伝のコースにもなっていた為、彦一だこに夢中になって“コース”に出てしまい、“今、ここコースになっています!”と注意されてしまいました。
 

 たこは、屋外で大空に向ってあげます。という、ささやかな遊びですが、寒風にさらされながら、空を見上げるというのは、ささやかなりに大切な営みです。彦一さんが、3000メートルの糸で彦一だこを大空にあげていたというのは、ささやかでしかし壮大な人の営みです。その大空に人は、憎しみを込めて爆弾を飛ばすということをしてしまいます。飛んでいった爆弾が、無差別に人を殺してしまうことにも平気だったりします。パレスチナのガザなどの出来事を、イスラエルに人としてイスラエルの側から書いているのが「死を生きる」(D.グロスマン、みすず書房)です。イスラエル人として少し冷静な目で見た時に、イスラエルとパレスチナが“和平”の名のもとに“合意”したとされることの多くに示されるイスラエルの意図は、「実は治安政策を拡大したもので、パレスチナ人を自治区に閉じ込めて、それぞれの区域をイスラエル側の道路やロードブロック(道路封鎖)や入植地の綿密なネットワークでとりかこみ、分断すること」(前掲「死を生きる」)だったりしました。あからさまに、力ずくでそんなことが推し進められることの絶望と無力、そして憤りが無差別に人を殺す“自爆テロ”になったのが1996年です。そのことへの報復、更なる自爆テロ、見せかけの“和平”を繰り返して、2008年12月27日のガザへの空爆になりました。パレスチナの人たちも(アラビア語でタイヤー・ワラ)、イスラエルの人たちも(ヘブライ語でアフィフォーン)、たこあげで遊びます。そうして見上げるはずの空を空爆の戦闘機が飛び、無差別に人を殺す爆弾が打ち込まれます。
 

 そうして憎悪が新たな憎悪になってしまうパレスチナで、グロスマンはイスラエルの側から「・・・もっと別の生き方ができたはずだ。少なくとも別の可能性を検討してみることはできるはずだ」と問い続ける一人です。
height=1
[バックナンバーを表示する]
height=1


?????width=80

Copyright (C) 2005 koudoukyoukai All Rights Reserved.