西井儀彦さんが死んだことを、友人が知らせてくれました。西井さんは、公同通信に“花はじき遊び”を連載してもらったこともある、子どものおもちゃのを作るのが仕事の人でした。西井さんが得意とする花はじき遊びのことでは、教会学校・幼稚園などに講師で来てもらったこともあります。花はじきは昔からあって、デンプンを固めて作られていたらしいのですが、1960年ころからはプラスチックになりました。今も市販されていて、100g(約100個)が400円だそうです。星まつりや公同まつり、神戸長田の“統一マダン”に、教会学校で射的の出店をする時の“点数”に花はじきを使っています。ピラミッド型に6個の缶を積んで、“輪ゴムライフル”で射ち落とした缶の数の花はじきを渡し、たまった花はじきの数で景品が選べるようになっています。
西井さんは、花はじきを使っておもちゃを作りますが、同じ日本おもちゃ会議の会員ということで、花はじきのおもちゃを教えてもらうことになりました。西井さんの花はじきのおもちゃは、誰でも簡単に作って遊べるのが魅力でした。たとえば、“花はじきカタカタ”は、丸い鉛筆に針金を巻いて“バネ状”にし、ちょっと引っ張って伸ばし螺旋状になった針金に2、3個の花はじきを通し、端を上下するとカタカタ音を出して回りながら上下するおもちゃです。仕掛けも作るのも簡単で、安上がりのおもちゃです。
西井さんは59歳で死んでしまいました。仕掛けも作るのも簡単で安上がりの花はじきのおもちゃは、西井さんの生活を支えるという訳には行きませんでした。西井さんとは、10年以上会っていませんが、遊び心がたっぷりで人懐っこいその顔は忘れることができません。
2月に、からくり人形おもちゃ作りの、西田明夫さんが死んだことを、館長をしていた有馬玩具博物館の職員が電話で知らせてくれました。西田さんの名人芸のからくり人形のおもちゃは、ヨーロッパの木のおもちゃの本場でも有名でした。その西田さんの5、6年前からのもう一つの仕事が、有馬玩具博物館の設立と運営でした。元は旅館だったビルの3~6階にはヨーロッパの伝統的な木のおもちゃや、世界の有名なおもちゃ作家のおもちゃが並び、スイスのネフ社のおもちゃは、手に取って遊べるようにコーナーが設けられ、西田さんが直接遊びを教える時間もありました。
博物館のところどころに、西田さんのからくり人形おもちゃも並べられていましたが、他のどんなおもちゃにも負けない出来具合でした。西田さんが死んでしまったことを、友人だった組み木のおもちゃのデザイナーの小黒三郎さんは「これからの人だったのに残念です」と言っていました。
一昨年、兵庫県立芸術文化センターなどを会場に開催された催しの際、有馬玩具博物館からはヨーロッパのクリスマスの木のおもちゃ、小黒三郎さんからはクリスマスの組み木のおもちゃなどを出品展示してもらいました。訪れた人たちに小黒さんのデザインした“昇り人形”で遊んでもらう準備をしましたが、その時に西田さんデザインの “佐渡裕昇り人形”も準備することになりました。というのは、しばらく前に有馬玩具博物館一階の工作室で、西田さんが“佐渡裕からくり人形”を特注で制作していたのを見かけて、そんなお願いをすることになりました。お願いしてしばらくして、西田さんから“佐渡裕昇り人形”の図面が届きました。阪神タイガースファンの佐渡さんを虎に見立て、指揮棒を振っているデザインです。2つ作ったうちの1つを直接佐渡さんに手渡し、1つはアートガレーヂに今もぶら下がっていて、訪れた人が佐渡裕を昇り下りさせて遊んでいます。西田さんの病気は癌でしたが、多分働きすぎが死期を早めることになりました。昨年11月に開業した阪急ガーデンズの木のおもちゃのコーナーを設けるにあたって、有馬玩具博物館と西田さんが協力することになりました。そこには、西宮をイメージして作った大型からくり人形の大作が展示されています。その大作を見れば、西田さんが想像力が豊かなおもちゃの作家であること、決して手を抜かない、確かな技術を持った職人でもあることが解ります。
手作りのおもちゃは手間がかかり、その分割高になります。安価な樹脂を材料としたものや教育玩具には到底立ちうちできません。しかし、西井さんも西田さんも子どもたちと手作りのおもちゃに魅せられ、それを作ることに力を尽くしましたが、自分や自分の家族の生活のことでは充分な働きはできませんでした。多分、そうだっただろうと思っています。ただ、この人たちは、子どもに魅せられ、子どものおもちゃに魅せられた、いい人たちだったのです。そして残念なことに、まだまだたくさんの子どもたちのおもちゃの仕事をやり残して死んでしまいました。
7、8年前に、やはり子どものおもちゃを作るのが仕事で、その仕事をやり残して加藤裕三さんが死んでしまいました。
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