「兵庫県小野市の住宅で男児の遺体が見つかった事件で、死体遺棄の疑いで逮捕されたトラック運転手の大塚竜容疑者(34)と妻の美由紀(33)が、男児の口に靴下を詰め、猿ぐつわをし、半日にわたり衣装ケースに入れていたことが県警の取材で分かった。当時は7月半ばで、県警は男児が脱水症状を起こし死亡した可能性がるとみて、監禁致死容疑でも調べている」(2009年5月2日、朝日新聞)。4歳の子どもを、もしこんな具合に扱って死に至らしめるとしたら、人として歩むべき道を踏み外しているというよりありません。ありませんが、こんな“なんでもあり”なのが、人という生きものの事実として、認めるよりないように思えます。思えますが、踏みとどまる機会が皆無ということでもありません。
アブラハムの子イシュマエルを生んだハガルは、女主人サラ(サライ)と、夫アブラハムによって追われることになります。「アブラハムは明くる朝はやく起きて、パント水の革袋を取り、ハガルに負わせ、その子を連れて去らせた。ハガルは去ってベエルシバの荒野をさまよった。やがて革袋の水が尽きたので、彼女はその子を木の下におき、『わたしはこの子の死ぬのを見るのに忍びない』と言って、矢の届くほど離れて行き、子どもの方に向いてすわった。関所が子どもの方に向いてすわったとき、子どもは声をあげて泣いた」(創世記21章14~16節)。その時のわらべ(イシュマエル)の声は神に届きます。「子の死ぬのを見るに忍びない」ハガル、「声をあげて泣く」子どものことが神に届かないはずはなかったのです。全くすんなり、そうなるということではありません。そもそも、ハガルがアブラハムの子イシュマエルを生むことになったのには、サラが一枚かんでいました。古代社会で、子孫を残すことは至上命令でした。その子どもを産まなかったサライ(サラ)が、自分に代わってそれを期待したのが、サラの女奴隷ハガルでした。ハガルにアブラハムの子イシュマエルが生まれた後、予期に反しサラもまたアブラハムの子イサクを生むことになります。で、ハガルとイシュマエルのことがうとましくなったサラは、アブラハムにハガルとイシュマエルを追い出すことを求めます。この創世記のアブラハム、サラ、ハガルの物語が示しているのは、人という生きもののなんでもありの姿です。ちょっと違うのは、そして大いに違うのは、ハガルは「この子の死ぬのを見るに忍びない」と踏みとどまったこと、なんでもありの人にはそんな生き方の選択も全く余地がないことです。そして「神がハガルの目を開かれたので、彼女は行って革袋に水を満たし、わらべに飲ませた」(創世記21章19節)のようなことが起こります。怒りや絶望ですべてを投げてしまう人に、というか逆に人はそのことに全く振り回されてしまわない生き方もあり得ることが、ここでは示唆されているように読めなくはありません。
“なんでもあり”ということでは、人が人としての歩みを始めるとすぐ、人は人としての道を踏み外していきました。「園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」(創世記3章1節)だったはずの園の木の実をエバは食べてしまいます。“なんでもあり”の始まりです。そのエバの息子のカインは「主はその供え物を顧みられなかった」ことを憤って、弟であるエバの息子アベルを殺してしまいます。神がその手で造ったとされる人アダムとエバのその息子たちが“兄弟殺し”をしてしまうのです。そんなこともあって、人が地の表に増えた時、その人は“なんでもあり”を繰り広げていました。ノアの時代です。「時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた・・・彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう」(6章11~13節)。選ばれて滅亡を免れたノアは、洪水の後「さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になった」という醜態を演じます。選ばれて免れたはずなのに、はやり“なんでもあり”です。
そのように読める創世記の古代社会の人の営みで、“子孫を残す”は、その社会の絶対でした。「彼(ロト)はふたりの娘とともに、ほら穴の中に住んだ。時に姉が妹に言った『わたしたちの父は老い、またこの地には世のならわしのように、わたしたちのところに来る男はいません。さあ、父に酒を飲ませ、共に寝て、父によって子を残しましょう』」(創世記19章30、31節)。子(孫)を残すために娘が父の子を産むという“なんでもあり”です。そして、妻サライ(サラ)との間に子どものなかったアブラハムは、その妻のはからいで、妻サライの女奴隷ハガルを妻としてイシュマエルが生まれます。なのに、サラは自分にも子どもが生まれると、アブラハムをそそのかしてハガルとイシュマエルを 砂漠に追い出してしまいます。
創世記に描かれている“なんでもあり”の人の営みが、すぐそこで起こった「・・・口に靴下を詰め、猿ぐつわをし、半日にわたり衣装ケースに入れ・・・」殺してしまうことよりましであるという訳ではありません。ましではないにせよ、創世記が“なんでもあり”の人の営みを余すところなく記述しているとすれは、深めなければならないのは、人という生きものの洞察です。
[バックナンバーを表示する]