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2009年06月03週
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 「衆院は18日午後の本会議で、臓器移植法改正案を採択し、原則『脳死は人の死』とし、臓器提供の拡大をめざすA案を賛成多数で可決した」(2009年6月18日、朝日新聞)。(A案:「脳死の位置づけ、一律に『人の死』、判定拒否権は認める。臓器提供の条件、本人に拒否の意思がなく、家族が同意。子どもからの臓器提供、0歳から可能)。
 

 臓器提供の拡大、臓器移植の推進が目的での人の死の定義のし直しで、衆院の多数の賛成で“脳死は人の死”ということになりました。こうして一律に“脳死は人の死”と定義することに無理があるのは、人というものはあれこれ極めてややこしい成り立ちの生きものであるからです。今度の場合の


 “脳死は人の死”という定義は、衆院の多数の賛成でそうなりましたが、国会、衆院の“多数”の賛成でそんなもの(こと)が決まるところに、死の定義が簡単ではあり得ないことが、そのまま露わになっています。露わになっていると理解せざるを得ないのです。極論を言えば、脳死はもちろん心停止の状態であっても、その“遺体”をある人が抱き続けるということはあり得る訳で、こんな場合に“だって、死んじゃってるでしょう”ということを受け入れないとしても、全く間違っているとは言い難いのです。そもそも、人の死が多数決でしか決められない程に、人の死の理解の多様な社会・文化を作ってきたのが、当の人そのものなのです。今度の場合の“脳死は人の死”という死の定義は、臓器移植法改正案のもとでの定義のし直しです。


 “ナマ”の血は流れているけれども、脳は死んでいるまごうかたなき死だから、その臓器は取り出せる、それを利用することが何よりの理由であり目的の法改正、死の定義のし直しです。しかし、この定義が少なからず強引で、死の定義にしては少なからずおそまつなのは、たとえば臓器移植を望まない“脳死者は遺体扱いになるのか”が問われたりすると、答えられなくなったりするあたりです。
 

 マルコによる福音書には、イエスの死について「イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた」「イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息を引きとられたのを見て言った『まことに、この人は神の子であった』」と書かれています。(15章37、39節)。この場合の息をひきとったのは“ガクッと首をたれた”ぐらいのことで、それがこの人の死だったりします。息をひきとり体が冷たくなったら、死というのがその時の死の理解でした。イエスの死から2000年経って、単純明解だった人の死を“脳死は人の死”と定義し直したりするのは、人が生み出し営んできた社会・文化など様々なことを抜きに、人には死の定義が難しいことを改めて露わにしています。
 

 多田富雄は「生命の意味論」(新潮社)の“死の意味”の項で「脳神経系、免疫系というような、個体の『自己』を決定し、その『自己』の生存に必須なシステムが成立するためには、細胞の『死』が必然的にプログラムされていなければならなかった。個体の『生』を保証していたのは細胞の『死』のプログラムであった」「死をプログラムにする遺伝子が存在していたことは、もともと細胞は死すべき運命をもって生まれてきたことを示している。また死のプログラムに対してそれをオンやオフにする遺伝子が存在していることは、死というものが高度に調節された生命現象であることを示している」と書いています。そうだとすれば、人の生命現象を臓器移植を理由、目的に“脳死は人の死”としてしまうのは、そのシステムそのものへの反逆を意味することになりかねません。例えば、臓器移植とその結果の拒絶反応は、更にそれを抑制することで二重三重に生命現象を傷つけることになりかねないという意味でも。なぜそうなのか。同じ「生命の意味論」で、多田富雄は「私がこの本で点検しようとしている生命の存在様式、『超(スーパー)システム』は、まずこのようにして、あらゆる可能性を秘めた何ものでもないものから、完結したすべてを備えた存在を生成していくシステムである」とも書いています。
 

 創世記は「はじめに神は天と地とを想像された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は『光あれ』と言われた。すると光があった・・・」で始まっています(1章1、2節)。と語られているのは“神話”ですが、この神話は生命現象の根幹を言い当てていると言えなくはありません。“あらゆる可能性を秘めた何ものでもないものから、完結したすべてを備えた存在を生成してゆくシステム”(混沌から人の創造)という意味でも。もしそうだとすれば、臓器移植を理由、目的に人の死を定義し、それが“脳死は人の死”であるとすれば、その薄っぺらな生命現象の理解は、人の生と死の冒涜以外のなにものでもありません。どうであれ、人の死の定義が臓器移植法案の中で論議されることがあってはならないのです。
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