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2009年06月04週
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 2008年12月27日に始まった、イスラエル軍によるガザに対する攻撃について、伝えられる限られた情報をもとに取り組むことにしたのが「パレスチナ、アイヌ、沖縄、大地震―暴力に問われ暴力を問う、ソウル・フラワー・モノノケ・サミット・ライブ」です。そこで起こっていることに対しては、ヨソ者でしかあり得ない位置で、しかし可能な限りえぐってみたいという思いが“暴力に問われ暴力を問う”になりました。


 6月21日〜23日には沖縄で2つの講座を実施しましたが、参加者は講師を含め5〜8名というささやかなものでした。「日本プロテスタント宣教150年」ということで、日本基督教団もそれを記念しようとしていますが、記念というなら163年だと、沖縄の人たちは理解してきました。なぜなら“鎖国・禁制”の沖縄にベッテルハイムが「イエスの前では誰でも平等です」というキリスト教をもたらしたのは150年前ではなく、163年前の1846年だったと沖縄の人たちは理解してきたからです。村椿嘉信さんの話は、“宣教150年”ではなく、“宣教163年”であるべきことを、ベッテルハイムの働きから説き起こす内容でした。


 琉球大学講義室で「沖縄で暴力を問う」について、琉球大学の星野英一さんに話してもらいました。国家の安全保障に対して“人間の安全保障とその今日的課題”がその内容でした。それが不可能ではないこととして語られる時に、少なからず違和感を持ちました。2008年12月27日に始まった、イスラエルによるガザに対する攻撃について、伝えられる限られた情報をもとに考え続けてきたことは、たとえば“人間の安全保障”ということであれば、それの実現はもちろん、そのかすかな可能性を奪うことも辞さないのが、ガザ攻撃のはずでした。イスラエルに向かって撃ち込まれたとされるロケット弾に対して繰り出されたのは、爆撃機による“空爆”あらゆる種類の戦闘車両による攻撃でした。沖縄の場合も、国家の安全保障の名のもとに奪われ続けてきたのは、人間の安全保障でした。6月23日は沖縄は、沖縄戦で亡くなった人を全島で慰霊する日になります。1945年6月23日に終結することになったとされる沖縄戦その後の63年、沖縄で起こりつづけてきたのは米国と日本の国家の安全保障の名のもとに、沖縄で生きる人たちの安全保障を踏みにじることでした。そこで行使された暴力と立ち向かうのはた易くありませんでした。今も、暴力でねじ伏せることで沖縄の米軍基地は存続しています。沖縄で生きる人たちの“人間の安全保障”は、その事実の問題としての語りにくさと言うことでは、星野英一さんもまた語りきれなかったように思えました。


 6月25日の「パレスチナ、アイヌ、沖縄、大地震―暴力に問われ暴力を問う」の講座は「自然“災害”のその後を生きる」で、吉山隆生さんと野田正彰さんの話でした。吉山さんは一人の生活者として、1995年1月17日の大地震を体験することになりました。住んでいた家が壊れ、指定された避難所に避難しました。そうして始まった自然災害の避難所の生活で、その時までの生活者として目から見えてきた“目に余る”出来事が吉山隆生さんのその後(被災者であり続ける今)になってしまいました。それは普通に生活者として生きることと、大きな自然災害の時に行政の立てる対策の落差であったりします。たとえば、兵庫県南部大地震の時に建設が決まった仮設住宅は40,000でした。後に、8,300戸が追加されることになります。そうして“追加”されたのは、被災者の生活を保証する仮設住宅建設ではなく、被災者が避難することになった学校などを明け渡させることが目的でした。その結果、多くの被災者が生活者として生きてきた地域から、遠く離れた仮設住宅に移らざるを得なくなりました。そうして、生活者としての生活が、二重三重に奪われ続けることを、吉山隆生さんにはガマンできませんでした。
野田正彰さんは、話の冒頭で「パレスチナ・アイヌ・沖縄・大地震―暴力に問われ暴力を問う」の“暴力”がそうして抽象化されることによって、本当の意味での暴力を解りにくくしている事を指摘しました。そんなことの具体例が行政の災害の報告書だったとする訳で、それが報告書の体をなす程、災害の現場の事実と遠くなってしまうこと、そんな意味でも“抽象度の高い言葉を使わない方がいい”というのが、野田正彰さんの指摘でした。 “一つの大きな自然災害が露呈するのは、地面の断層でありかつ社会の断層である”ことを指摘し、吉山隆生さんの被災者である事実からの報告を、言葉で補っていたように思えます。


 “暴力”については、暴力に“問われ”暴力を“問う”とすることによって、それが“抽象化”されることを避けたかったのが、この言葉を使ったそもそもの意図でした。 height=1
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