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2009年07月01週
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 「患部のあるらい病人は、その衣服を裂き、その頭を現し、その口ひげをおおって『汚れた者、汚れた者』と呼ばれなければならない。その患部が身にある日の間は、汚れた者としなければならない。その人は汚れた者であるから、離れて住まなければならない。すなわち、そのすまいは宿営の外でなければならない」のように、レビ記がらい病人について言及する時に、容赦がなかったりするのは、その場合の社会を守ることが優先するからで、だから露骨に隔離を要求します。しかし、らい病人であることを露わにすることを求め、露骨に隔離を要求するとしても、その人の存在そのものを否定している訳ではありません。“衣服を裂き、その頭を現し”などを、具体的に指示し、“そのすまいは宿営の外でなければ”と言及はするのですが、その人の生きる意味、意志にまでに及んで否定したりはしません。
 

 例えば、話題になっている「臓器移植法改正」では、その修正案は「現行法と同様に、『臓器移植の場合のみ脳死は人の死』という趣旨の条文を盛り込む」ことになるのだそうです(2009年7月3日、朝日新聞)。そうして、“現行法に戻って臓器移植の場合の脳死は人の死”を基準にした場合にも、“臓器移植しない場合の脳死は死でない”というもう一つの基準が残ることになります。というが、一方では脳死は死なのに、同じ脳死なのに死とはしないという二つの死の定義・基準は“混乱”そのものです。死は、その本人はもちろん、その人に寄り添う場合にも、抜き差しならない痛みや深い悲しみなしには立ち向かえない重い事実です。なのに、“臓器移植”を理由に死の基準を設けるとすれば、とても薄っぺらなものにならざるを得ません。人の死はどうであれ薄っぺらくはないのです。そうであるはずなのに、死の基準を法律で決めようとして混乱が起こっています。人とその死と向かうあうこと、人とその死で決別するなどのことを、合理化することが混乱なのです。死は(そして生は)一つの臓器の定義で説明できるほど単純でないのはもちろん、人によってその意味の異なることが、人という生きものの豊かさでもあるのです。
 

 「ひとりのらい病人が、イエスのところに願いにきて、ひざまずいて言った、『みこころでしたら、きよめていただけるのですが』。イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、『そうしてあげよう、きよくなれ』と言われた。すると、らい病人が直ちに去って、その人はきよくなった。イエスは彼をきびしく戒めて、すぐにそこを去らせ、こう言い聞かせられた。『何人にも話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ・・・』」(マルコによる福音書1章40~43節)で、当のらい病人も、イエスも露骨に隔離する社会であることを身にしみて知っていました。しかし、イエスは律法のきよめを無視し“イエスが深く憐れみ手を伸ばして彼にさわり”というきよめ・治療を行ってしまいます。 “手を伸ばして彼にさわり”その結果の治療“らい病が直ちに去る”をしてしまうことは、2重3重にその社会が社会を温存するための秩序を被ることでした。律法のきよめにとどまれば(要するにらい病人を排除すれば)、その社会が守られることは知っていましたが、そうであったとしてもイエスがその振る舞いで優先するのは、社会を守ることではなく、今そこにいるものの願いに耳を傾け、手を伸ばしてさわる癒しでした。イエスにとって、今、そこで出会っている事実以上のものはあり得なかったし、定義や基準で、その人が生きている世界を閉ざすということもあり得ませんでした。
 

 で、そうして定義した基準が生まれ更に了解までされてしまうことについて。「このようにして、死ぬまでの間に寂しい思いや不快な思いをしたくないということ、死んでいった人に関わる悲しみを和らげたいと思うことと、潔く死んでいくという話とか、緩やかではあるが、そして誰かが意図的につなげたということではないのだろうか。つながっている」と書いているのは立岩真也です(「良い死」筑摩書房)。レビ記ではらい病人を“汚れた者、汚れた者”とはやし立てる様子を描き、極限の不快な思いにその人たちを追い詰めます。同じレビ記の律法のいましめのもとで生まれてきた人が、たとえばイエスの前にひざまづき、きよめて欲しいと願いでます。その人たちを、全く留保なしにイエスが受け止めた、イエスの様子をマルコによる福音書は書きとめます。
 

 そのイエスの死は、あらゆる意味で孤立した死でした。“弟子”と言われた人の誰もその現場にはいませんでした。“寂しい思いや不快な思いをした”とは一言も口にしませんが「エロイ エロイ ラマ サバクタニ(わが神、わが神、なにゆえ私をお見捨てになったのですか)」と口にして息絶えます。目撃したローマの百卒長は「まことに神の子であった」と言います。寂しさや不快、そして孤立していたとはいえ、不可避的にやってきた死を引き受けた様子が、“まことにこの人は神の子であった”と言わしめたように思えます。 height=1
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