人や物事の定義、分類の仕方の一つに聖(人)と俗(人)があります。日本の仏教、浄土真宗の開祖とされる親鸞はその教団では“聖人(しょうにん)”ですが、「僧侶の常識的な戒律にこだわらずに、ごく普通の生活の振舞いをしている」人でしたから、自分では“聖人”であることを拒んでいたと言えます(「増補 最後の親鸞」吉本隆明、春秋社)。聖について白川静は「聖は祝祷して祈り、耳をすませて神の応答するところ、啓示するところを聴くことを示す字」と書いています(「字統」)。聖の文字の構成の中に“耳”が組み込まれたりするのは、聖が聞くことと深く関わるからです。この場合の聖は、全く無条件に聖であり得るのではなく、“耳をすませて神の応答するところ、啓示するところを聴く”から聖なのです。
キリスト教(教会)の教えが示され、教えが伝えられる書物に「聖書」の名が冠されています。“耳をすませて神の応答するところ、啓示するところを聞く”ということでだったら、その態度らしきものは貫かれていますから「聖書」であったとしても、言い過ぎではありません。というか、聖書では正真正銘神に聞くことが重んじられてはいるのです。
「主(なる神)は地の上に人を作ったのを悔いて、心を痛め『わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これを造ったことを悔いる』と言われた。」神の言葉が、ノアは聞こえたのです(創世記6章6~8節)。
「わたしは耐え忍んで主(なる神)を待ち望んだ。主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、わたしの足を岩の上に置き、わたしの歩みをたしかにされた。主は新しい歌をわたしのくちに授け、われらの神にささげるさんびの歌をわたしの口に授けられた」という、詩人にも神の声が聞こえていました(詩編第40編1~3節)。
「また言われた『あなたがたは、自分の言い伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。モーセは言ったではないか“父と母を敬え”また“父または母をののしる者は、必ず死に定められる”と』」イエスには神の声が聞こえていました(マルコによる福音書9章9、10節)。
こうして、“聞く”ことが重んじられるのは、いわゆる聖(人)のそれではなく、いずれの場合も「耳をすませて神の応答するところ、啓示するところを聞くことを示す」という意味での神の声を聞くのです。
2、3日前のこと「学生にセクハラをしたという誤った事実認定で名誉教授の称号を取り消されたのは違法として訴えていた裁判で・・・男性の訴えを認める判決があった」「関西学院大学神学部の名誉教授は、指導していたある大学院生から・・・セクハラ被害を訴えられ」、判決は「意に反するハグはセクハラにあたるが、問題性は軽微で・・・」と報道されていました(2009年7月19日、朝日新聞)。“神学部”で更に“教授”であったりすれば、社会通念上間違いなく“聖職”です。その聖(職の人)が“セクシュアルハラスメント”だったりすると、2重3重にゆゆしい問題ということになります。判決は“問題性は軽微・・・”なのですが、この判決に問題があるとすれば、“問題性は軽微”を、それ以上には洞察できないことです。ひょっとすると、判決が言うように“問題性は軽微”だったのかも知れません。聖(職の人)が“濡れ衣セクハラ”と認定されることになったとして、“被害者”“加害者”という言葉の届かない関係を作ってしまっていたのは確かです。
“被害者”“加害者”の関係が生まれてしまう“聖職”はどうであれ無残なのです。
「・・・先生方。その子たちが引き返して戻る頃には、私も文章で誰かに向けて、ある一人の子どもに伝わるような呼びかけを、そういう一人の子の胸に届くような、文章が書けないかと・・・」と書いているのは石牟礼道子です(「不知火」、藤原書店)。“伝わる”あるいは“届く”ということが起る為の前提は“聞く”ことです。中でも、聖(職の人)の聞くは“耳をすまして神の応答するところ、啓示するところを聴く・・・”です。当然、“神の応答するところ、啓示するところを聴く”聖(職の人)は、人の言葉が聞ける人です。そうして聞かれたりする言葉は、“濡れ衣セクハラ”などという、乱暴な言葉であってはならないのはもちろんです。聖(職の人)であるはずなのに“加害者”“被害者”になり、“濡れ衣セクハラ”などという乱暴な言葉になってしまうところに欠けているものがあるとすれば、「文字に書かれぬ哲学を生きている人」への洞察であり、気付かなくてはならないのは聖(職の人)の振舞いこそが、「山とか海辺とかを全感覚で生活している人たち」によって、生命を与えられているという感覚なのです。
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