キリスト教の教会が、1週7日の7日目を“聖日”として週毎礼拝をするのは、旧約聖書第1章1節~4節に書かれる「天地創造」の物語の「こうして天と地、その万象とが完成した。神は第7日にその作業を終えられた。すなわち、その全ての作業を終って第七日に休まれた。神はその第7日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである」(2章1~3節)に由来します。この“第7 日”のことは、神がモーセに語った言葉、“十戒”として、以下のように旧約聖書に書かれています。「安息日を覚えて、これを聖とせよ。6日の間働いてあなたのすべてのわざをせよ。7日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない」(出エジプト記20章8、9節)。
この場合の“第7日”主(なる神)の安息日である“7日目”は、地球が太陽を一周する365日、それが12に分割されたり、7日、52週になったりすることを“暦”として古代社会の人たちは知っていました。旧約聖書は、そんな古代社会の歴の理解を、天地創造の7日間、7日目を神の安息の日として宗教の約束の基本に置くことになりました。この神の安息の7日目を、キリスト教の教会は日曜日に礼拝をすることで繰り返してきました。日曜日がキリスト教の礼拝の日であること、“7日目はあなたの神、主の安息日であるから、なんのわざをもしてはならない”即ち、礼拝の日であることは、人が生きる生活のリズムと重なるという意味でも、そんなに唐突なことではなかったのです。
そうして日曜日を“主の安息の日”“礼拝の日”として繰り返してきたキリスト教は、人が生きて死ぬまでのことでも、いくつかの働きをしてきました。子どもが生まれた時、結婚する時、死ぬ時などです。それぞれ、幼児祝福式、結婚式、葬式(西宮公同教会の場合“告別式”)などの宗教・儀式としてそれが行われます。
幼児祝福式は子どもが生まれた時家族の申し出により、結婚式や葬儀は広い意味での教会関係者の申し出によって行われてきました。そのいずれの場合も、結婚式場のキリスト教式結婚式や葬儀場の葬儀と異なるのは、いわゆる儀式ではなく、毎週繰り返される教会の礼拝とつながる人と神、人と人との結びつきがもとになっていることです。
結婚式と異なり、人の死・葬儀の予測は立てにくいのが普通です。人として生きる様々な歩みがあったとしても、多くの場合の死は“突然”やってきます。だからこそ、大切にしなくてはならないのは、生きている間に可能な限り出会いを重ね、生きた時間を可能な限り共有しあうことです。そんな結果の死の時には立ち会い、そしてその人を送る、それが葬儀なのです。その場合の葬儀は、誰かにゆだねてしまうものでないのは当然です。
“突然”やってきて、多くの場合“経験”にも乏しい死と葬儀の、具体的な手順ということになると、それを仕事にする“葬儀屋”さんの手を借りることになります(火葬の手配、柩の手配や納棺など・・・)。死に立ち会って、驚き悲しむ遺族のその時に、当然“経験”も乏しかったりするその時、それを仕事とする人たちの主導で進められてしまいがちです。西宮公同教会の告別式の場合、遺族と教会がそれを行うのであって、葬儀屋さんは手伝うという関係であることをまず了解してもらいます。遺族と葬儀屋さんの打ち合わせに際しても、教会の関係者(牧師)がそこに立ち会います。そして、告別式に際して、死という出来ごとに立ち向かっている人たちの身近にいて、寄り添うことで力を尽くします。もちろん、身近な人を亡くすことになった、悲しみやとまどいに立ち会うという難しさを了解しながらです。
死んだ人のまだ温かかった体は、時を置いて冷たく、そして固くなっていきます。そんな時の、一つ一つの事実を引き受ける、残された人たちの悲しみにも、立ち会い寄り添うのも教会の働きです。そして告別の時を迎えます。葬儀・告別式は、儀式ではなく、その人が生きてきた歩み、どうしても死を迎えざるを得なかった事実、生きた意味を問い、問われ、共有する神の前での営みとしての礼拝として営まれます。そんな時間があって、死んだ人は火葬に付されます。昨日、笑っていた人が、わずかばかりの骨と灰になってしまいます。人の死に立ち会い、更に別れ難い別れの時にも立ち会うことは、誰にとってもどんな時でもたやすいことではありません。火葬場の最後の別れ“骨を拾う”ことに立ち会う仕事をする人たちは、おおむね言葉が少なかったりします。数多くの人の火葬に立ち会って、人の言葉が届きにくいことをたぶん知っているからです(それに比べ、最近ではほとんどの葬儀が請け負われることになった“葬祭会館”では、限りなく儀式化した葬儀で、遺族・参列者を誘導し、事柄を軽く扱っているように思えたりします)。
“刑死”したイエスを葬るのは、たぶん難しかっただろうと考えられます。イエスの遺体を引き取る人がいて、埋葬したことが新約聖書に書かれています。埋葬のときの処置が間に合わなくて(香油を塗るなど?)、後で行ってみると墓は空っぽでした。マルコによる福音書は、そこでイエスについての記述を終えます。そこに、何かを付け加えることも、何かを差し引くことも、死という事実や、その事実を引き受けることの意味を、弄ぶことになります。
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