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2009年09月04週
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 1960年代に実施されていた“全国学力テスト(正確には全国学力・学習状況調査)”が2007年に復活し、その結果や、結果の公表などのことが話題になっています。全国学力テストは、教育現場の理解度の実態や、諸外国と比較した場合の理解度の低下が問題になって、“復活”されることになりました。復活の理由となった理解度を、諸外国と比較した場合に、教科にもよりますが、特に劣っているのではないことは別に報告されています。学力テストは、教育現場にことこまかに介入することが目的で復活したのが本音かもしれません。例えば、「日教組の強いところは学力が低い」と文部科学省の責任者が公に述べた日教組の“強い”県の学力テストの結果は、そんなに低くなかったりしました。学力テストの復活、その結果や結果の公表などのことは、直接に学力の問題であるとは考えにくいように思えます。学校教育現場のことが問題であるとすれば、そして“学力低下”に少なからず関係があるのは、①教員の病気休職者数、②校内暴力の発生件数、③不登校者数が、1990年代の初めと比べると、2000年代が飛躍的に増えていたりすることです。少し古い記録ですが、それぞれが3倍から6、7倍に増加しています。こうした数字が明らかにしているのは、問題は学力の低下ではなく、教育現場の教育力の低下であり、その結果としての学力の低下です。その学力の低下も、諸外国と比べる時、著しく低下し、劣っている訳ではありません。
 

 その教育現場の教育力の低下の結果の“被害”をもろに受けてしまっているのが、現場に身を置くことを余儀なくされる子どもたちです。学校での学習の時間とは別に多くの子どもたちが、塾での学習の時間を余儀なくされています。全くすべてという訳ではありませんが、小学校に入学した子どもたちは、例えば西宮の場合だと、週2回、各2時間くらいを塾で過ごすことになると聞いています。その場合の親の負担は、最低で月々15,000円、多くは20,000円を超えるとの事です。
 

 学校教育の現場で“完結”するはずの子どもたちの学習・理解が、学校現場の外、塾に持ちこされることになり、結果的に子どもたちの時間を拘束します。学習し、修練して自分のものにする、即ち理解するということは、そこそこおもしろかったりしますが、少なからず“苦痛”であったりもします。学習し修練・習得するのは、要するに今までの自分にはない新しいものを見につけることですから、自ら強いられた修練の場や時間を引き受けることで、全くすべて楽しいという訳にはいかないで、“ガマン”することにもなります。結果“理解”できれば“ガマン”の経緯は“意味”を持つことにもなります。ところが、そこに居ることを余儀なくされる教育現場での理解が、不十分なままで終わるとすれば、そこに居ることの意味が少なからず失われることになります。もしそれが、子どもたちにとって余儀なくそこに居らざるを得ない現場であるとすれば、どうであれ“理解させてもらう場所”でないと困るのです。理解できないままそこで過ごして、もう一つの別の“理解できるところ”、いわゆる塾が用意されたとしても、子どもたちにとっては問題の解決にはなりません。依然として、学習・理解の完結することのない学校現場で、無意味に近い時間を過ごすよりないのですから。
 

 その学校現場の学力低下が問題になって復活することになったのが“学力テスト”です。更に、それが真正面からではなく、ただ結果の評価や、結果の公表の問題になっているらしいのです。もし、学校現場で学力低下が起こっているのだとすれば、例えば“教員の病気教職者数の増加”、中でも“精神疾患”が増加し続けているのは、そこでの教育する力が衰えている以外の何ものでもありません。もし、そうした教員によって教育現場が担われているとすれば、“混沌”が自然である思春期の子どもたちを引き受ける力を欠くことを意味し、すべてではないにしてもその結果が“校内暴力”と言われるものになっているかもしれません。
 

 2004年9月に、西宮公同教会の集会室で、“たのしい学習塾”がはじまりました。名前の由来だけでなく、“たのしい”という内実の為のヒントになったのは「たのしい授業」です。板倉聖宣らによって提唱された“仮設実験授業”の、実践の手引として1983年に発行されたのが月刊「たのしい授業」でした。準備号から始まって今も読者で、“たのしい”をいっぱい教えてもらってきました。その“たのしい”の願いで始まった“たのしい学習塾”は、今も細々と続いています。“たのしい学習塾”の何よりの課題は、子どもたちが“学習を嫌いにはならない”です。嫌いにはならない(あるいは“嫌いにはさせない”)は、難しくはあるのですが、子どもたちの学習を見守り、付き合う“いい大人”がそこにいることで、かなりは果たされます。たとえばその役割を“親”が担うことが可能でなくはありませんが、学習し修練をする為の時間の共有や、距離の取り方が難しいのが親子なのです。
 

 “たのしい学習塾”は、何しろ“たのしい”ですから、まず学習ありきでないのはもちろんです。しかし、学校現場とは別にもう一つの無意味な時間を、子どもたちに過ごさせたりはしません。“いやし”の場ではありませんが、“たのしい”場であってほしいと願って始まった塾の試みです。 
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