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2009年10月01週
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 人が死んだ時、キリスト教で“召天”と言ったりする天について、新約聖書ではあれこれ繰り返し書かれています。「むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。行って『天国が近づいた』と述べ伝えよ」(マタイによる福音書10章7節)。今、生きている現実とは別の、理想の世界(国)“天国は近づいた”、だからそれに備えることを求めます。だから「・・・財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、2枚の下着も、くつも、つえも持って行くな・・・」などだったりします(前同9、10節)。人が今日を生きて、明日を生きる生活の継続ということを考える場合、必要なものを“要らない”と言ってしまうのが、マタイによる福音書の“天国”(または天の国)の理解です。
 

 マルコによる福音書やルカによる福音書では“天国”のことが“神の国”と書かれています。「それを見てイエスは憤り、彼らに言われた『幼な子らを、わたしのところに来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国は、このような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない』」(マルコによる福音書10章14、15節)。こうして“幼な子のように神の国を受け入れる者”という場合の“子ども”というものについて、それ以上言及されていません。この場合の幼な子・子どもは「それ自身限りなくひろがる地平を持ち、たえず求め、求めるものに手をのばし、おとなの眼をすりぬけてゆく子ども」(「児童文学論」リリアン・スミス、岩波書店)だとしても、そんなに間違ってはいません。そんな場合の子どものように“たえず求め、求めるものに手をのばす”ことを疑わず、最良のものを求め続ける時、そこにあるのが“神の国”だと、マルコによる福音書は言いたいのかもしれません。なのに「・・・人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた・・・」(同13節)だったりしますから、幼な子たちの “・・・限りなく広がる地平線”はずたずたにぶったぎられているというのことが事実に近いかもしれません。
 

 「神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた。『神の国は、見られるかたちで来るものではない』また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたの中にあるのだ」(ルカによる福音書17章20、21節)。これだと、神の国は、今あなたがたが生きている現実なのだ、と言っているように聞こえます。ただ、「・・・あなたの信仰があなたを救ったのだ・・・」と言ったりするくらいですから、神の国のことでも現実のことでも楽観的と言えなくはありません。
 

 「ヘヴン」(川上未映子、講談社)を読書会で読みました。人によっては気分が悪くなるような、中学生ぐらいの子どもたちの“いじめ”の世界が舞台になって、薄っぺらではない“ヘヴン”“天国・神の国”がテーマの物語のように読めました。中学生くらいの子どもたちの世界で“いじめ”というものがあったとして、その事実と自己理解には隔たりがあります。子どもたちは、うまくその事実を説明できなかったりする、あるいは訴えると言うことをしないという意味で。「ヘヴン」は、そんな断絶の、しかし“凄まじい暴力”の現実を生きる子どもたちの内面に迫って描きます。同じようにいじめられている“ぼく”と“コジマ”ですが、そのことの受け止め方が違います。“ぼく”は理由を探し、その理由を取り去ることで、いじめから逃れようとします。“コジマ”はいじめを受け止め更に直視することで、その先を見出そうとします。しかし、そのいずれの場合もいじめを了解しているかもしれないことを「ヘヴン」は描こうとします。凄まじい暴力に、ただ晒されるのではなく、自ら選んでいるかもしれないこととして。他方の凄まじい暴力を加える(強い)側の子どもたちの場合も、その事実と自己理解の間には断絶があります。暴力を加えられる(弱い)側の痛みも、そのことの良し悪しにも関心を示すことはありません。こんな具合に、暴力を受ける側と加える側が共存してしまう世界のことを、コジマは「・・・弱さに意味があるんだとしたらね、強さにも意味があるんだよ。それも弱いやつが自分の弱さを正当化するためにつくりあげた程度の意味じゃなくてね・・・」と語ってみせます。物語では、その直後「するとその顔(コジマの顔)は百瀬に変わっていた」、更に「百瀬は笑いながらぼくに向かって言った。なにかに意味があるなら、物語の全部に意味はあるし、ないなら全部に意味はない」となります。
 

 たぶん、暴力を加える(強い)側と同じ言葉を使った時、コジマは百瀬と対等になったのです。ぎりぎりそんな場面を“憑依”するように描写したのが「ヘヴン」です。ですから「ヘヴン」のぼくとコジマは「ぼくの目からはとめどなく涙があふれ、それがコジマの顔にぼたぼたと落ちて、コジマの涙と雨にまじって消えていった。それは悲しみのせいで流れた涙ではなかった。それはたぶん、こうしてぼくたちはゆく場所もなく、ぼくたちがこのようにしてひとつの世界を生きることしかできないということにたいする涙だった」の涙を流します。そして“ゆく場所もない(善悪が共存する)ひとつの世界”であるヘヴン、即ち天国・神の国は新約聖書のテーマでもあるのです。 height=1
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