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小さな手大きな手

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2009年10月04週
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 小さな世界のささやかな働きであっても、その向かい合い方で、無いに等しいということにはなりません。日曜日の朝、1時間余りの集まりの教会学校の時間は、その働きの小ささと言うことでは、ささやかです。しかし、小さくてささやかな働きを、自分たちの生活の一部と受け止める子どもたちがいること、そのことの1時間余りの為に、考え得る限りの備えをしてそこに臨む時、“誇るに足る”働きになり得るはずです。
 

 イエスは、その生きた時代で特別に記憶され、記録される存在ではありませんでした。ほぼ唯一記憶されることになったのが、新約聖書、中でも福音書です。広く記憶され記録されることにならなかったのは、足を運び手を伸ばすくらいの狭い世界が働きの範囲だったからです。“先生”と呼ばれたりしますが、指導者として強い影響力を持った訳ではありません。「ヨハネがイエスに言った、『先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました』。イエスは言われた『やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。わたしに反対しない者は、わたしたちの味方である』」(マルコによる福音書9章38〜40節)。そのイエスは、イエス自身が証言したとされる「ほむべき者の子、キリスト」、「ユダヤ人の王」であることを理由に処刑されることになり、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですが」と叫んで息を引き取ります。その一部始終を見ていたローマの百卒長は「・・・このようにして息を引き取られるのを見て言った、『まことに、この人は神の子であった』」と証言しています(マルコによる福音書15章39節)。
 

 “わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか”と叫んで息を引き取ったイエスが、百卒長に“神の子”と見えたのは、確かにそのようにして息を引き取ったのだけれども、何かが守り通されたからのように思えます。例えばそれは、人としての誇りです。小さく、ささやかではあっても、自分の働きを貫き守った人の誇りです。
 その“誇り”ということでだったら、2009年10月19日付で届けられた「兵庫教区の諸教会/伝道所の皆様、消火器投げ込み等による教会被害に関して−緊急のご連絡とお願い−」は、少なからずその“誇り”に欠けるように思えます(そもそも“教会被害”などと言葉がずさんですから、思考もずさんになるのですが)。ひょこっと教会を覗いたKさんに、交通費などを理由に400〜500円の“借入”を求められると、断りにくかったりします。返すことも、返すあてもないのに“貸して欲しい”と訴えるKさんには、誇りのかけらもないかといえばそうではありません。Kさんの生い立ちを少しばかり聞いたことがあります。どこにもその生活を根付かせることができなくて、路上生活などが余儀なくなった経緯も聞いたことがあります。ちゃっかり、人の“善意”を利用して生きているのを垣間見たこともあります。そんな自分から、はいあがろうともがき、しかし果たせないままに生きてしまったKさんは、それをさらして生きているということではウソは無い訳で、小さな誇りがその人生の底に無くはないのです。 10月19日付けで届けられた“消火器投げ込み等による教会被害に関して−緊急のご連絡とお願い−”は、そこに示されている“教会被害”そのことへの“お見舞い”そして“ご用心”を呼びかけているなどの一つが一つが、教会が、キリスト教会であることの誇りを自ら踏みにじり、更にそのことに気付いていないという意味で無残に見えます。例えば、“消火器投げ込み等による教会被害”の“被害”なのですが、それを被害とすることがそもそも了見が狭いように思えます。確かに、社会通念からいえば、消火器を投げ込まれたりするのは被害です。しかし、キリスト教・教会は一般に社会通念を優先するのではない、別の価値観も併せ持つことで果たすのが、その役割であると理解してきました。例えば、犯罪や犯罪者に向かい合う場合、ただ憎む側に立つのではなく、それも含めた人や社会の有り様を見つめる側に立つ、という具合にです。なのに、10月19日付で届けられた文章は、教会もまた一般に社会通念の中にあることを少しも疑っていません。そして、“お見舞い申し上げ”“くれぐれもご用心を”と呼びかけています。そうして、一般に社会通念の範囲で、社会通念の言葉であれば無難ではあるのでしょうが、そうして守るに値するものがなんであるのか、少しも見えては来ません。あるいは、見ないことで安心しているのかもしれません。


 で、改めて“教会被害”なのですが、それが被害であるとして、それでもって教会の何が脅かされることになるのだろうか。確かに、窓ガラスが割れたり、“消火器の白い粉”の後始末は大変なのでしょうが、それらのことで、キリスト教・教会であることの根底が脅かされるようには思えません。


“後始末”程度のことで、“お見舞い申し上げ”“くれぐれもご用心を”と呼びかけることで失うのは、キリスト教・教会であることのささやかな誇りです。イエスが「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言って息をひきとったとしても、その一部始終を目撃した百卒長には「神の子」に見えたのは、ゆらぐことのない“人としての誇り”が貫かれているのを見抜いたからです。本物と贋物の区別はわかったということでもあるのですが。
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