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小さな手大きな手

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2009年11月01週
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 幼稚園の庭に、即製で池を作り“ぎんぶな”を飼っています(昨年は、捕獲してすぐにさばいて七輪で焼き、子どもたちは泥臭さ、生臭さに鼻をつまんで試食していました)。
9月末に津門川でぎんぶなを捕獲するにあたって、小さな騒ぎになってしまいました。“川魚調査隊”ののぼりを立て、おとなが数人川に下りて投網をうって、捕獲しようとしたのですが、網が広がってくれませんでした。その様子を左岸から応援などをしていて、近所に住んでいた大学の先生に叱られることになってしまいました。以下、3点ぐらいが叱られることになった理由です。

 \邊澆瞭始に子どもたちが集まったりすると、車(自分)の走行妨害に
なる。
 ∋劼匹發燭舛集まって騒いでいたりするのであれば、事前に近所の人た
ちに通知するべきである。
 川魚を捕獲するのであれば、河川を管理している市ないし県の許可を得
るべきである。というようなことを、子どもたちも見聞きする中であれこれ問答をすることになりました。
 ,砲弔い討蓮∪邉の捕獲の為、子どもたちが集まる場所として、阪急線 から北、南昭和橋(西宮公同教会総合ビル、南東角)の間の津門川左岸
にしたのは、隣接する住宅への出入り以外、ほぼ一般車両の通行はみられないこと、ただ、この日の朝たまたま大学の先生の車が、子どもたちが集まっている時間帯に帰ってきてしまいました。ということで、平常の車両の通行状況の事、だから、津門川左岸に子どもたちが集まることになったなどを説明しましたが、了解していただけませんでした。
 △砲弔い討蓮△感畚蠅諒々に通報してご了解を得なかったのは事実ですが、せいぜい子どもたちの“騒ぐ”(決してどなるのではない)声の事ですから、そんなに迷惑になるとは考えなかったと説明しましたが、了解してもらえませんでした。
 については、“川魚調査隊”(…“中”とすべきところを間違って“隊”にしてしまった)ののぼりを立て、主として教会学校のスタッフ、おとなが川に下りて川魚を捕獲していたこと、更に、当日の責任者(菅澤)は、津門川の自然を守る会の代表として、“にしきた街づくり協議会”の幹事になっていること、その働きは地域や行政などから認知されてもおり、その活動の一環としての川魚の捕獲であるから、改めて市ないし県の許可をとらなかったことを説明しましたが、市ないし県の許可を取るべきだと譲りませんでした。
 

そんなやりとりを子どもたちはそっくりそのまま見聞きして、叱られる様子に心配そうにしていました。
 

ということで、捕獲することになった川魚・ぎんぶなが一ヵ月経った今も、幼稚園の庭の即製の池で無事に飼われています。2、3日前、泥が投げ込まれるなどして汚れたその池の清掃をすることになって、少し小さめに作り変えられました。新しい池の傍らには「つとがわ・ぎんぶな、ちょうさしいくちゅう。ドロをいれないでね」更に魚の絵の吹き出しで「みずがきたなくなると、ぼくかなしい」と書かれた紙がはられています。
 

毎月第2、4水曜の教会の読書会では「子ども学序説」(浜田寿美男、岩波書店)を読んでいます。10月28日に読んだ「第4章 学校のまなざしとその錯覚/4. 発達の大原則と教育のまなざし」で、浜田寿美男さんが書いていることの一つが「・・・子どもの自然とおとなの文化、とりわけ学校という文化がどのように接続し、どのようにすれ違い、食い違っているのかを、いまあらためて振り返ってみなければならないところに、私たちはいる」でした。
 

教会学校で、短い時間の中で子どもたちと作り出す生活の一つが、川魚調査だったりします。街の中で、通報も許可もなしで川魚を捕獲してしまうのは、昔だったら子どもたちの“いたずら”の一つだったかもしれません。そんないたずらを、その時の社会は全て了解した訳ではありませんが、見て見ぬふりぐらいはしました。“子どもだったら、そんなことをしてしまうもんだ”と、浜田寿美男さんの“子どもの自然”として了解したのです。
 今、子どもの自然としての“いたずら”が成り立たないのは、子どもの世界のほとんどが、おとなの文化に飲み込まれてしまっているからです。たとえば、幼稚園の庭の即製の池にはられている紙と文字は“子どもの自然とおとなの文化”ということで“接点”が全くない訳ではありません。“つとがわ・ぎんぶな、ちょうさしいくちゅう”では、子どもたちにはちんぷんかんぷんかもしれませんが、池のその魚が幼稚園の前の川でつかまえたぎんぶなであること、ぎんぶなはどんな音でも気がつくし、隠れている水草を動かしたりしないようにすること、そんなぎんぶなの様子を見るのが“ちょうさ”であると説明すれば、その言葉を子どもたちは、おおむね了解します。“ドロを入れないでね”についても、子どもたちに解る内容の言葉で説明できます。魚の吹き出しの絵で“みずが、きたなくなると、ぼくかなしい”は、これ以上説明しなくても、子どもたちには了解できる言葉です。多くは子どもたちが自然に了解できる言葉であって、おとなの言葉で強制する文化ではないと言えます(ぎんぶなの“運命”なのですが、いつかは食べる“泥出し”で飼っているとはいえ、たぶん津門川に返すことになると思います)。 
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