教会学校の夏の文集に、担当者の一人として、“夏の体験”を書くことが求められました。「雌阿寒岳に登るのは3度目でしたが、背の高いエゾマツ、トドマツが登っていくうちにみるみる背の低いカバノキになり、ハイマツに変わっていく様子に、驚いたり嬉しくなったりしました。山から下りてきたエゾマツ、トドマツの林床にたくさんの“ギンリョウソウ”を見つけました。今帰仁村のキャンプで工事中の為に迂回した村の畑の道路わきに立っていた慰霊塔に、30人を超える沖縄戦で死んだ人の名前が刻まれていました。それは“死を痛む”沖縄の人たちの記録のように読めました」と書いたところ、“かぞくから”「『痛む』は『悼む』です。・・・北海道から沖縄まで、又又行動範囲の広い夏でした。」と書かれました。
その“痛む”“悼む”について、たぶん“かぞく”は、日頃の漢字の誤りの多いこともあって、困ったもんだと思って書いたのでしょうが、この場合は敢えて“悼む”ではなく“痛む”になりました。沖縄県今帰仁村仲尾次(なきじんむら・なかおじ)の、畑の道路わきに立っていた慰霊塔に名前が刻まれることになった人たちと、いわゆる“慰霊碑”“忠魂魄”に名前が刻まれることになった人たちには、少なからず違いがあります。違いがあるだろうと思っています。“慰霊”される人が、戦場で死ぬ場所に居合わせたことはもちろんないし、その体験を直接聞くということも多くはありませんでした。父よりも先に亡くなった弟(叔父)は、日本が戦争に負けた時、一兵士として中国戦線にいて、ソ連軍の捕虜になりシベリアに“抑留”されることになりました。3年後に帰国し実家で同居することになった叔父から聞かされたのが、隣りの仲間が朝になって死んでいて、その時にはカチカチの丸太棒のように凍っていたこと、その“丸太棒”を運び出して掘った穴に投げ込んだことなどの“怖い”話だったりしました。例えば、戦と戦場の後で繰り広げられたことの一つが、叔父たちのそんな“痛み”の体験だったりします。そんな体験から遠い人たちにとって、更に遠い過去のことだったりする時に、“痛み”は“悼み”に容易に変わってしまいます。今帰仁村仲尾次で見た慰霊塔の裏に刻まれた“大東亜戦争戦死者氏名”の30名余りの人たちの事は知りません。ただ、慰霊塔をそこに建てた人たちにとって、“戦死者”の死は遠くはなかっただろう事です。沖縄島(本島)北部の今帰仁村仲尾次も、1945年3月から始まった、沖縄の地上戦の戦場になりました。いわゆる“南部戦線”のこと、戦争の後その“戦跡”に建てられた慰霊塔とは別に、仲尾次のような慰霊塔は、沖縄の至る所に建てられているはずです。そこには、南部戦線で死んだ人たち、仲尾次などのその場所で死んだ人たちの名前も刻まれているはずです。更に、慰霊塔の立てられているその場所は、名前を刻まれているその人たちの血が流された場所でもあったりします。だったらそれは“悼み”ではなく“痛み”だとして言及したのが「死者たちの戦後史/沖縄戦跡をめぐる人々の記憶」(北村毅著、御茶の水書房)です。仲尾次の慰霊塔を立てた人たちは、その畑で血が流され、血のにじんだ畑に肉親を慰霊する塔を立てたのかもしれません。南部戦線で、爆弾で幼い子どものからだが吹きとんだ時の、その“かけら”を手にした驚きや恐れをそのまま慰霊塔に託したのかもしれません。戦争は“悼み”ではなく“痛み”だったのです。
2009年12月3日に父が亡くなって、会葬していただく人たちに渡す短い文章を書くことになりました。
戦争の時代を生き、戦争の“痛み”を背負って生きる世代の人でした。生涯の大半は、子どもたちが生きて学ぶ働きの為のものでした。
田んぼで、畑で、山で汗を流すことを厭わない人でした。
村と村を繋ぐ道の為に奔走する人でした。
2004年3月、長い間一緒に生きてきた伴侶・とし子に先立たれ、それ以来一人暮らしの日々を生き、2006年1月に娘・悦子に先立たれました。
94年間生き、2009年12月3日午後11時1分に永眠しました。家族の手の足らないところを、お世話いただいた皆さま、ありがとうございました。
万葉の杜の皆さま、エルダー・ヴィラの皆さま、すわ苑の皆さま、金沢医大氷見市民病院の皆さま、ありがとうございました。
2009年12月5日
父の世代の人たちの体験が、悼みとして語られることに、違和感を持ち続けていて、何よりも多くを語らないままに死んで行くのは“痛み”としてそれを見つめることを避け続けていたからのように思っていました。で、この文章も“悼み”ではなく“痛み”にしました。
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