日本キリスト教団西宮公同教会・西宮公同幼稚園
教会について
礼拝・諸集会のご案内
小さな手・大きな手
公同通信
教会学校について
公同幼稚園について
どろんこと太陽
関西神学塾:スケジュール
関西神学塾:講師紹介
楽しい学習
賃貸住宅事業部とは
テナントについて
活動内容
アートガレーヂについて
催し物のご案内
リンク
アクセスマップ
お問い合せ
width=1
top>小さな手大きな手
width=639
小さな手大きな手

height=1
2009年12月04週
height=1
 神の言葉は、直接聞くことができる人もいますが、多くの人の多くの場合、それを(神の言葉を)聞いた誰かの証言として聞くことになります。
 

 それを(神の言葉を)聞いた人の証言が「私の魂は主をあがめます・・・」(ルカによる福音書1章39節)だったりする訳で、これはイエスのお母さんになるマリアの聞いた神の言葉です。
 

 先日、「教会、幼稚園の皆さんへのクリスマスプレゼントです。」とりんごを届けて下さった弘前市の下山公栄さんからは、別にファックスで通信も届きました。通信には「・・・信仰の無い私には、クリスマスの何たるかは良くわからないのですが、小さな子どもだった頃、クリスマスにサンタさんから贈り物をもらうのがとても楽しいものであった事は記憶にあります。今日(12月21日)、幼稚園の子どもたちとスタッフの皆さんに当園から少しばかりのリンゴをプレゼントさせてもらいました。クリスマスの行事に間に合うと良いのですが。私からの贈り物と言うより、りんごそのものが神さまからの贈り物だと思えるからです・・・」。そんな下山さんからの通信に返信を書きました。「信仰は、直接言葉で具現化するなどのこともあるようですが、下山さんからいただくお便りは、何かの信仰そのものであるように受け取っています。イエスが処刑された時、その一部始終を見ていたローマの百卒長(ローマ軍の百人隊の隊長)は、そうして処刑されるイエスを見て『まことに、この人は神の子であった』と口にした事が、新約聖書に書かれています(マルコによる福音書15章39節)。十字架で処刑された人を見て、その人を“神の子”だと見たという意味で、このローマ軍の兵士は信仰の人であったように思っています。キリスト教と言う宗教の徒であるという意味ではなくても・・・」
 

 ローマの百卒長が、十字架で処刑されたイエスを目の当たりにして、「まことに、この人は神の子であった」と言ったとして、百卒長がキリスト教徒としてそのことを証言している訳ではありません。いわゆるキリスト教徒としての証言ではありませんが、そこで目の当たりにして言い当てていることは、とても大切です。見るべきものを見て、その何たるかを外さずに言い当てているという意味で。百卒長が目の当たりにしたイエスの事実は、神に捨てられた自分を言葉少なに語って、十字架で息絶えた人でした。見るからに神の子でも何でもない人の死でした。なのに、百卒長は、目の当たりにしたその出来事とその事実を「まことに、この人は神の子であった」と“証言”します。
 

 下山公栄さんは、信仰心の無い私には・・・と言い、かつ届いたりんごを私からの贈り物というより、りんごそのものが神さまからの贈り物だと思えるからですと書いています。届いたりんごは、下山さんという人が育て、下山さんという人が送り届けてくれたりんごです。しかし、下山さんにとってりんごは、間違いなく“神さまからの贈り物”なのです。りんごというモノが神さまからの贈り物ということではなく、そのモノが“神さまからの贈り物”と、受け止められるところがたぶん肝心です。
 

 無残にも十字架で処刑される人の有様が神の子と言えたり、実ったりんごが神さまの贈り物だと言えたりするのは、その人たちだけの特殊な能力でなくはありません。しかし、その場合の特殊は、ありもしないことを殊更に吹聴する類のものでないのはもちろんです。何よりも、神の子、あるいは神さまからの贈り物として受け止める、その人の“達人性”に多く依拠しているように思えます。人として、“神と人のはざまに生きる”人であることで可能になったという意味で。
 

 「神と人とのはざまに生きる/近代都市の女性巫者」(アンヌ・ブッシィ著、東京大学出版会)は、書店のカウンターでもらった“UP”(東京大学出版会宣伝図書)の紹介文に誘われて読んでみることになりました。中井シゲノという女巫者の一代記なのですが、“特殊で不思議な霊能者”ではなく、“神と人とのはざまに生きる”人がいたこと、そのことが言葉で表現されているところが説得力になっているように読めました。「成立した宗教の伝統、ドグマや組織を背景にして、公に正統的な宗教職能者と認められ、活動する人たちに対して『宗教の達人』とは、以上の枠組みを多かれ少なかれ超えて、特にカリスマを発揮して、それによって新しく(場合によっては革命的に)宗教活動をする人たち、いわば、前者は伝統と正統性を基盤にするのみで、後者は(伝統も利用するかもしれないが)特に自分個人のカリスマと活動を中心にする事によって自分の正統性を作り上げ・・・」(脇田晴子、前掲“UP”紹介文)。という意味でだったら、イエスの処刑の一部始終を見て神の子と言った百卒長や、りんごそのものが神さまからの贈り物と言う下山公栄さんは、その達人性において、神と人とのはざまに生きて、神を証言しているように思えます。
height=1
[バックナンバーを表示する]
height=1


?????width=80

Copyright (C) 2005 koudoukyoukai All Rights Reserved.