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小さな手大きな手

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2010年02月02週
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 幼稚園で子どもたちが届けてくれたり、旅先で出会ったモノなどのことで、思いを巡らせています。


 一つは、子どもが「もくれんじょ!」と言って届けてくれた袋には、黒とベッコウ色で半透明の玉が入っていました。黒い玉は、羽根つきの玉に使われるモクロジ(の実)で、ベッコウ色の玉はその果皮らしいことが分かりました。子どもの頃に住んでいた家の、小さな谷を挟んだ向かいの田んぼの土手にムクロジが一本あって、秋になると黒い実が落ちていました。黒い実の果柄の付け根のあたりが毛皮の帽子で覆われているのが特徴です。その黒い実の固さで、羽子板でついた時、カチンカチンという音になって響きます。この時に届いた、もくれんじょ、ムクロジの黒い実と音のことがきっかけになり、幼稚園ではこま回しやけん玉と並んで、羽根つきで遊ぶ子どもたちも増えています。
 

 もう一つは、赤いソテツの実です。このあたりだと、JR西宮駅北の忠魂碑の両側や、幼稚園で借りている伏原町の畑の入り口にもソテツが植えられていて、秋になると盛り上がってこぼれそうな赤い実が葉っぱのすき間に見えます。5年前の夏に、奄美大島・喜界島を訪ねた時、行く先々でソテツがあって、中にはそれがくねくね伸びていたりして、樹齢100年、200年になるのだと教えられました。ソテツが伸びた先には、こんもりした丸い花と、巨大なトウモロコシのようなとがった花が咲いていました(ソテツの赤い実は、こんもりした丸い花に付く)。 “ソテツ地獄”は、奄美・沖縄の島の人たちが、台風やその時の潮風で作物に大きな被害が出た時、最後の最後にそのソテツの実の毒を抜いて食べものになるのだと、聞いたことがあります。


 もう一つは、昨年10月に、篠山市後川(しつかわ)の、後川小学校を幼稚園の子どもたちと訪ねた時「校庭で育てたひまわりの種です。西宮でも植えて下さい」と、小学生たちから贈呈されたひまわりの種です。2010年2月22日に、136回目の創立記念日を迎える後川小学校は、それが最後の創立記念日になります。どうであれ小学校は、その地域の中心であり、そこからあふれる子どもたちの声は、その地域の生きた証しになってきました。後川小学校が136年の歩みを閉じるにあたって、残し伝える生きた証しとして、子どもたちはひまわりを植え、採取した種に、その願いを託しました。


 もう一つは、2009年夏に訪れた北海道紋別の、コムケ湖とオホーツク海に挟まれた砂浜で拾った、すべすべの石です。その時に、その砂浜で拾った石は、流氷とオホーツク海の荒海の冬、浜防風が砂の中からちょこん芽吹くと春、里に現れたキタキツネが砂浜を走り抜ける夏、はまなすが赤い実を一面に漬ける秋を、数え切れない程繰り返し見てすべすべになり、数え切れないすべすべの石の中から拾い上げることになった石です。


 聞こえてくるムクロジのカチンカチンという音、赤いソテツの実と飢餓の記憶、ひまわりの種が芽吹く明日への希望、すべすべの石ころに振り返る過去の、たとえ一つでも疎(おろそ)かにするなら、それは人が人としてあることを疎かにするのと等しいことになります。


 なぜなら、人が人であることも、ムクロジの黒い実、ソテツの赤い実、ひまわりの小さな種、すべすべの石ころも、土から生まれ、土にかえるということでは変わりはないのですから。「主なる神が、地と天とを創られた時、地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」と書いているのは創世記です(2章4〜7節)。人は神が土のちりで作ったという“神話”(信仰)は、同じ創世記2章18節〜25節の“男からの女の創造”で、男と女の人という存在の根底的な有り様として指し示します。即ち、人が人である歩み、自立はいかにして成し遂げられるかが、ここで示されています。その為には、人は土のちりで造られたところに立ち戻るよりなく、そこで聞こえてくるムクロジの黒い実の音、ソテツの実の飢餓の記憶、ひまわりの種の芽吹き、すべすべの石ころに込められた過去などのことは、何一つ疎かにはできないのです。
 イバン・イリイチは「土についての宣言」の中で、次のように言っています。「地球という惑星、世界の飢餓、生命への脅威などを語るエコロジストのおしゃべりに対して、われわれ哲学者に強く求められているのは、土という者を謙虚に見下すことである。われわれは、土の上にたっているのであり、地球の上に立っているのではない。われわれが生まれるのは土からなのであり、排他物や亡骸を委ねる先もまた土なのである。にもかかわらず土は―土を耕すこと、われわれと土との結びつきは―、われわれ西洋の伝統の中にある哲学が扱うもののうちから、著しく欠落しているのである」(「土についての宣言」、イバン・イリイチ、「環」Vol.40)。
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