北村慈郎紅葉坂教会牧師が、「免職処分」になりました。紅葉坂教会の聖餐式での未受洗者への配餐を止めるよう、「度重なる勧告を受くるにも関わらず、日本基督教団教憲及び教規に違反」を続けた為に「免職処分」になりました(西宮公同教会の牧師は“補教師”といい、“未”資格の聖餐式で未受洗者に配餐しています)。
一般に宗教団体の教師が(たとえば仏教教団だったら僧侶が)規則を破ったりしたら、それなりの処分を受ける事はあるのでしょうが、教団全体に実害を及ぼすような事実でない限り“免職処分”(“破門”)にはなりにくいはずです。日本基督教団の場合も、免職処分のようなことになる“戒規”の規定は「本戒規は、教団及び教会の清潔と秩序を保ち、その徳を立てる目的を以ってこれを行うものとする。但し本戒規は、その適用を受けたるものと神との関係を規定するものにあらず」(戒規施行規則第1条)となっています。そして、戒規が問題にするのは、おおむね“清潔・秩序・徳”に関わることで、それは、人と神との関係には及ぶものではないとなっています。宗教、中でもキリスト教という宗教は、人と神との関係を問うことから始まるのですから、戒規がそこに“及ばない”のはもちろんだとして、人と神との関係を別にして清潔・秩序・徳の意味が問われたりしないはずです。そうだとすれば、未受洗者への配餐は、キリスト教という宗教を成り立たせる、その基である人と神との関係をおびやかすものでないにも関わらず、その肝心のところを差し置いて未受洗者の配餐が“免職処分”になったりすると、誰にでも解る、ということにはなりにくくなります。解りにくいのです。
というキリスト教の教師の“免職処分”その理由になっている“未受洗者への配餐”のことも解りにくいのですが、キリスト教の“教師”のことが、そんなに解りにくい訳ではありません。今、一般に教師であるのと同じではありませんが、イエスは繰り返し“教師(先生)”とみなされています。「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、『よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか』イエスは言われた。『なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。いましめはあなたの知っているとおりである。“殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母を敬え”』」(マルコによる福音書10章17~19節)。こうして“よき師(よき先生)”と呼びかけられたりする事があっても、何かの資格があっての事でもなく、先生と呼ばれることを望む訳でもありません。あるとしたら、呼びかけている人たちが、思わず“先生”と口にしてしまった、というのが事実に近いはずです。はずですが、思わず“先生”と呼びかけられる先生が、より先生というものの事実に近いかもしれません。たとえば、上記の場合の“永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか”と問われた“よい先生”は、その問いを投げかけた人の足元を、少しだけえぐって見せます。教えられることも学ぶことも、少なからず他からの働きかけや手掛かりは必要であったとしても、自分をえぐり自分で一歩踏み出す営みではあるのです。そして、教育や教師であることを、建前でしているとすれば、「あなたに足りないことがひとつある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。・・・」などの言葉になったりしません。教師というものであり得るのは、そのことで自分の足元をえぐること、えぐる覚悟なしには“教える”ということはあり得ないという、覚悟や自覚においてなのです。多分、その時には、教師という立場はもちろん、言葉もまた必要ではないように思えます。“よき師”などと呼ばれて、もちろん浮かれたりもしないイエスの、それが立ち位置のように思えます。先生と呼びかけられたりするイエスが“規則”問題に直面する時も、それが絶対的な何かであったりしないことを、“安息日論争”で示します。「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」(マルコによる福音書2章27節)で示す、“よき師・イエス”は、解りにくくはないのです。聖餐は人の為にあるもので、人が聖餐の為にあるのではないとすれば、未受洗者に配餐をした教師が“免職処分”になったりはしないのです。
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