聖書(新約)には、労働(仕事)や労働者に関わることが、あれこれ書かれています。「さて、イエスはガリラヤの海べを歩いて行かれ、シモン、シモンの兄弟アンデレとが、海べで網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった」(マルコによる福音書1章16節)。網を持って漁をし、獲れた魚が食卓にのぼっていたこと、獲れた魚が多ければ、他の野菜や果物などと交換したり、そうして働くことが人々の生活を支えていました。人々は働いていたのです。働くことと生活することはそのままつながっていました。「ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが歩きながら穂をつみはじめた。するとパリサイ人たちがイエスに言った。『いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか』」(同2章23、24節)。畑を耕して麦の種をまき、それを育てて収穫しパンを焼く、その一つ一つの現場で働く労働者がいること、その労働・労働者には休みの日もあるなどのことを、うかがい知ることができます。教条的な理解が、"安息日論争"になっていますが、生きる為に働く現場があって、働く人がいたということなのです。
「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園の労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。彼は労働者たちと、一日1デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った・・・」(マタイによる福音書20章1、2節)。ぶどうを育て、ぶどうを収穫し、それがぶどう酒になる現場には、労働者を雇う人がいて、雇われる人がいて、更に、それに"あぶれる"人もいたことを、マタイ福音書の3節以降で記述しています。雇われることはいつでも当り前ではありませんでした。しかし、働くことは生きることとつながっていて、そのことの厳しさが16節までのやり取りに反映しているのかもしれません。「イエスは譬で多くのことを教えられたが、その教えの中で彼らにこう言われた『聞きなさい。種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった・・・』」(マルコによる福音書4章2、3節)。これは"譬"として語られていますが、もとはと言えば、何かの種をまき、それを育て、遂には収穫するとして、その労働がその時の自然の条件や労働者の働き次第で、むくわれないこともあり得ること、そんな意味で働くことと生きることとはつながっているのです。マルコによる福音書6章34節も、イエスの語った譬です。「・・・イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろ教えはじめられた・・・」。食料としての羊の乳、衣服に加工される羊の毛を手に入れる為に、羊を飼う労働には、その命をあずかる責任があります。それを仕事・労働として責任を果たすことは、自分たちが生きることとそのままつながっています。譬ですが、羊を飼うという生活者の、生活という労働のことがもとにあって、初めて語り得た譬のように思えます。
聖書(新約)の時代、生きることは働くことであり、働くことは生きることでした。もちろんその時にも、誰かが教え、誰かから学びました。あるいは、誰かが教え、誰かから学ぶ以外、生きることも働くこともあり得ませんでした。
今、それが「大学や短大の教育課程に職業指導(キャリアガイダンス)を盛り込むことが2011年度から義務化される」ことが話題になっています。「義務化の背景には、厳しい雇用状況や仕事の内容が大きく変化」「ように、新卒就職者の3割が、3年以内に離職するなど、定着率の悪さも問題になっていた」(2010年2月24日、朝日新聞)。人にとって今も、生きることは働くことであり、働くことは生きることであるのは同じです。その働くということは、もちろん今も、誰かが考え、誰かから学びます。言われているところの"職業指導"は、①キャリア教育(社会的・職業的自立に向け、必要な知識、技能、態度をはぐくむ教育)、②職業教育(一定の、又は特定の職業に従事する為に必要な知識、技能、態度をはぐくむ教育)、③職業指導(キャリアガイダンス、職業指導やキャリアセンター等による、職業、就業に関する情報や相談体制などの機能)。(「中長期的な大学教育の在り方について、中教審第2次報告」2009年8月)。ということが職業指導を"義務化"される大学生(短大生)は、それまでの18年間、"生きることは働くことであり、働くことは生きることである"という、人が人として生きるもとになるものを、学んではこなかったのだろうか。およそ18年間、彼あるいは彼女の身近には、そんなことを学ぶ機会も、学ぶべき人もいなかったのだろうか。というか、人が人として生きるということは、"生きることは働くことであり、働くことは生きることである"ということを、一番身近な人から学び続ける営みであったはずです。なのに、そんなあたりまえの営みから断ち切られ、およそ18歳になってそれを学ぶことを始めたとしても、間に合うのだろうか。そして今、職業指導が義務化されることになる大学(短大)では、たとえば教えるという営みそのものが労働であるはずなのに、そんな生きた営みからは、学ぶものはないのだろうか。
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