「奈良県桜井市の吉田知樹ちゃん(5)が両親から食事を与えられず餓死した事件で、母親の真朱容疑者(26)を保護責任遺棄致死容疑で逮捕」「知樹ちゃんの体重が5歳児の平均より約3分の1の6.2キロ、身長も平均より25センチ低い2歳児程度の85センチ」、「4歳で死亡した次男に生前、十分な食事を与えなかったなどとして6日、埼玉県蕨市の両親が保護者責任遺棄容疑で県警に逮捕」「急性脳症による衰弱死で脱水症状もあった。体重は同年齢の平均より6キロ少ない10キロしかなかった」(2010年3月5日、朝日新聞)。
幼稚園で子どもたちと一緒に出かける時の電車やバスに乗り合わせた人に、子どもたちが話しかけられることがあります。もし、それが大人の場合だったら、全く初対面の見ず知らずの人が言葉を交わし合うことは起こりません。起こらないし、起こらないで済むのが、街の人たちの人間関係です。しかし、大人では起こらないことが、子どもたちをめぐっては起こってしまいます。幼児期の子どもは、その時のしぐさ一つで、周囲の大人の笑顔を引き出し、言葉をかけさせる力を持っているのです。
そうであるはずの子どもに、“食事を与えずに餓死させる”ことがなぜできてしまうのだろうか。こうした事件の事実について「母親は『愛したいけれど愛せない』という苦しみの中で子育てしている場合が多い・・・何とかしてやりたいという愛情が、憎しみと混在していた」(長谷川博一、東海学院大学、臨床心理学)、「子育て中の母親は少なからずストレスを抱えており、夫婦関係のこじれが虐待につながる場合もある」(大日向雅美、恵泉女子学院大学、発達心理学)などのことが言われています(前掲、朝日新聞)。更に、そうして起こってしまう子どもたちの事件・事実を“未然”に防ぐために、“虐待を見抜く主なチェック項目”が示されたりしています。「子どもの様子。保護者を怖がっている、体重、身長が著しく年齢相応でない・・・など」「保護者の様子。子どもの外傷や状況の説明につじつまが合わない、泣いてもあやさない・・・など」「生活環境。家庭内が著しく乱れ、不衛生、経済状態が著しく不安定・・・など」(厚生労働省による、2010年3月6日朝日新聞)。
幼児期の子どもたちは、その時のしぐさの一つ一つが可愛いのは、たぶんそのすべてが“自然”であることによっています。笑う時や泣く時はもちろん、立ちあがろうとする時も、こけたりする時も、それがたとえ逡巡する時であっても、“演技”が完璧であることによって可愛いのです。
その幼児期の子どもたちの可愛いさが受け止められない、届かない時、その人たちに何が起こっているのだろうか。あるいは何が足らないのだろうか。確かに、“チェック項目”に引っかかるようなことが起こっていたり、“愛情が憎しみと混在していたり”“夫婦関係のこじれ”などのことがあるのだとしても、“5歳の子どもに食事を与えず、体重6.2キロで餓死”させるまで、子どもからの“合図”を拒み続けることの方がたやすくはないように思えます。なのに、幼児期の子どもが、全身で発信する可愛さという合図を、長期間拒み続けて、餓死させるということが起こってしまいます。これに類する事件・事実が相次いでいて、子育てをしているお父さんやお母さんの周囲の人たちに注意を促すのが、“虐待を見抜く主なチェック項目”だったりします。しかし、虐待を見抜かなければならないこの国は、ここでは何ひとつ見抜けてはいないように思えます。
繰り返しますが、幼児期の子どもが全身から発する可愛さという合図は、人としてそれを拒むことは本来難しいはずなのです。なのに、拒み続けて、なおかつ餓死させてしまいました。気付かなくてはならないのは、この国では、人が人として育つ、あるいや生きる為の何かが奪われる、ないしは失われているかも知れないことです。気付かなくてはならないのは、この国では生きる為の欠くことのできない何かから、人は遠くなってしまっているかも知れないことです。
その、人が人として育つ、あるいは生きる為の欠くことのできない何かは、たとえば人が、自然とつながって生きた記憶であったりするように思えます。アスファルトで固められた道の、かすかなすき間であっても、そこで自然は営みを止めることはありません。自然はしたたかです。それがもし、たんぽぽであったとして、偶然飛んできた綿毛の種が、そのすき間に落ちたとすれば偶然です。偶然それが雨の後で、根を伸ばし芽を出した時に横に伸びて踏みつぶされなかったとすれば偶然です。その結果、花を咲かせたとすればそれも偶然です。そんな道ばたのたんぽぽの花に偶然出会った記憶で、人は命への驚きや畏れを身につけることになります。それも、一つや二つではなく、幾重にも重なって生命への入口に立つことになります。もし、命の営みの無限の宝庫である自然とのつながりが貧しかったとすれば、幼児の飢えや渇きの叫びが聞こえなかったとしてもあり得ることです。
そこに、人の顔や声の聞こえないできあいの食品、表情の見えない人工の声で全てが充たされる時、幼児の飢えや渇きが聞こえなかったとしても、これもあり得ることです。自然の懐に抱かれて人が育つということから遠くなったとして、それを取り戻す近道はないのです。
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