2010年3月17日に、西宮公同幼稚園で3年間を過ごした54人の子どもたちを送り出しました。3年間、あらゆる場所のあらゆる時間に、子どもとしての成長にあらゆる人の力が惜しまず注がれてきました。そんな意味で、54人の子どもたちを、自信を持って送り出したと言えます。
という幼稚園、保育所のことで、中でも保育所の入所を待っている“待機児童”及びその解消のことが、繰り返し話題になっています。全国の待機児童は、2009年4月現在で、25,384人だったそうです。施政方針演説で首相もそのことに言及していました。「『子ども・子育てビジョン』に基づき、新たな目標のもと、待機児童の解消や幼保一体化による保育のサービスの充実・・・に取り組みます。」(2010年1月29日)。言われている待機児童解消の為、保育所の新設が進められています。その保育所の設置認可と言うことでは、2000年3月に「・・・待機児童の解消等の課題に対して、地域の実情に応じた取り組みを容易にする観点も踏まえ、今、保育所の設置認可の指針を・・・改めた」要するに“緩和”されています(保育所の設置認可についての、各都道府県知事・各指定都市市長・各中核都市市長あて厚生省児童家庭局長通知)。たとえば、その一つが「社会福祉法人以外の者による設置認可申請」及び「審査の基準の緩和」であったりします。「実務を担当する幹部職員が、保育所等において2年以上経験を有する者であるか、著しくこれと同等以上の能力を有すると認められるものであるか・・・」(前記“通知”審査基準ウ.(ア))。認可保育所での保育を希望する者は多く、待機児童が増え、その解消を急ぐ為、保育所の新設認可の、審査基準の“緩和”の一つが“幹部職員が、保育所等において2年以上勤務した経験を有する者”であったりします。
あったりするのですが、乳幼児期の子育ては、あらゆる意味でた易くはありません。あらゆる場所のあらゆる時間に、子どもとしての成長にあらゆる人の力が惜しまず注がれて成り立つのが子どもを育てるという営みです。手を抜くことも、急ぐことも許されないのも子育てです。そんな営みであるはずなのに、新設されるはずの保育所が“幹部職員が、保育所等において2年以上勤務した経験を有する者”であるのは貧しすぎるように思えます。
たとえば、初めて子どもが生まれた、新米のお母さんやお父さんの場合、始まった毎日が子育ての経験と言うことになります。経験を積み重ねていない、ということで貧しいように見えますが、その一瞬一瞬が真剣勝負であるとすれば、立派にそれは子育てです。子育ての一歩は、真剣勝負で、その子どもに寄りそうことなのですから。子ども、赤ちゃんはよく泣きます。泣く時に、何より求められているのはお母さんやお父さんが抱くことです。抱いて“不”快感に気付いて(空腹・おむつの交換)それを取り除けばひと段落して、赤ちゃんもお母さんもお父さんもホッとします。そのこと、そんな毎日の子育ての経験が、そのまま“子育て”になります。もし、その時の子育てを難しいと思わせたり、誤らせるものがあるとすれば、外からの情報かもしれません。子育てをめぐる、過剰な情報に晒されて、更に、子育ての“基準”のようなものに左右されてしまう時、子育てが混乱するということはあり得ます。
そうではなくって、例えば子育て初心者のお母さんお父さんであっても、子育ては子どもの命に寄りそうことで可能になるのが子育てという営みです。しかし、保育所・保育(幼稚園・保育ももちろん)は違います。子どもという命を預かるのですから、すべての状況のすべての事態に、適切に対応することが求められます。“対応”だけではなく、あらゆる場所のあらゆる時間に、子どもとしての成長にあらゆる人の力が惜しまず注がれる時、初めて成り立つのが、(乳)幼児期の子どもたちの保育所(幼稚園ももちろん)生活です。“2年以上勤務した経緯”では、到底間に合わない仕事なのです。
たとえば、保育(という子育て)が、“対象療法”であったとすれば、“2年以上勤務した経験”というようなことで間に合うのかも知れません。待機児童解消で取り組まれているのは、解消という名の対策・対象療法です。子育てを、待機児童解消で保育所にゆだねてしまう時、子どもの育ちに込められた多くの事を、この社会は失ってしまうことになります。泣いている赤ちゃんを抱くという体験、その時の赤ちゃんが泣き止むという体験は、他の誰よりもお母さんやお父さんのものであるべきです。泣き止めさせるのではなく、泣き続けることに、時にはとまどい途方に暮れるのかもしれませんが、そうして一緒に生きることで、子どもはもちろん、お母さんもお父さんも、子どもに育てられるのが“子育て”という体験です。
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