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2010年04月01週
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 “受難”と言われる、イエスの十字架による処刑は、全く受け身であった訳ではありません。「・・・さて、過越と除酵との祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、策略をもってイエスを捕らえたうえ、なんとか殺そうと計っていた。彼らは『祭の間はいけない。民衆が騒ぎを起こすかも知れない』と言っていた」(マルコによる福音書14章1節)。計っていたけれども、手を出しかねていたのは“民衆が騒ぎを起すかも知れない”というのが理由です。見えていたのは、もし公然とイエスに手出しをするようなことがあれば、民衆が騒いでただではおかない、という状況です。と、言わざるを得ないほど、民衆に対する影響力を持っていて(人気があって)、それはそのまま、祭司長たちの宗教世界への挑戦でした。「・・・イエスは彼にむかって言われた、『私に何をしてほしいのか』。その盲人は言った、『先生、見えるようになることです』。そこでイエスは言われた、『行け、あなたの信仰があなたを救った』。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った」。見えるようになった盲人がイエスに従って行った時、祭司長たちが牛耳っていた宗教世界は、その根底をゆさぶられることになります。宗教理念や制度が通用しなくなって、イエスに従って行ってしまうことを目の当たりにした時、“イエスを捕らえたうえ、なんとか殺そうと計る”ということもあり得ることです。
 

 更に「イエスはその教えの中で言われた。『律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くことや、広場であいさつされることや、また会堂の上席、宴会の上席を好んでいる。また、やもめたちの家を食い倒し、見えるために長い祈りをする。彼らはもっともきびしいさばきを受けるであろう』」と言ったりする時のイエスの“その教え”は、もはや宗教理念でないのはもちろん、形式化した宗教と宗教制度のことごとくを批判します。という教えに「大ぜいの群衆は、喜んでイエスに耳を傾け」ます。ですから“祭司長たちや律法学者たちは、策略をもってイエスを捕らえたうえ、なんとかして殺そうと計った”としてもあり得ることだったのです。
 イエスの十字架による処刑は、受難ではあったとしても、全く受け身に生きて全く受け身にそれが起こったということではないのです。
 そんなイエスの受難を“手引き”することになったのが“十二弟子のひとりイスカリオテのユダ”です。「ときに、十二弟子のひとり、イスカリオテのユダは、イエスを祭司長たちに引き渡そうとして、彼らの所へ行った。彼らはこれを聞いて喜び、金を与えることを約束した。そこでユダは、どうかしてイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた」(マルコによる福音書14章10、11節)。「十二弟子のひとりのユダが・・・イエスを裏切る者は、あらかじめ彼らに合図をしておいた、『わたしに接吻する者がその人だ。その人をつかまえて、まちがいなく引っぱって行け』」(同43、44節)。“弟子”であるはずの人が裏切るということがなかったとしても、遅かれ早かれ
“策略をもって捕らえ殺そうと計る”祭司長たちの手にかかることは避けられませんでした。そこで弟子が一役買うことで事態は先へ進むことになります。十二弟子の一人であるユダの“動機”について「『・・・言った。彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」。すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。その時から、ユダはイエスを引き渡そうと、機会をねらっていた」と、“銀貨”を前払いするのは、マタイによる福音書です(26章10節)。マルコによる福音書は、“金を与える”ことは、結果です。“いくらくださいますか”と金を求めて、銀貨を前払いしたのだとすれば、動機も理由も解りやすくなります。マルコによる福音書で描く“十二弟子の一人イスカリオテのユダ”は、その言動“機会をねらっていた”“まちがいなく引っぱって行け”などから少なからずイエスに対する憎しみを読みとることができます。そんなユダは特別であったとしても、イエスが捕らえられた時、その周囲に弟子たちのことは描かれません。そこに弟子たちはいなかったのです。同じように、喜んでイエスの教えに耳を傾けた群衆も、そこにはいませんでした。全く逆に「・・・そこを通りかかった者たちは、頭を振りながらイエスをののしって言った『ああ、神殿を打ち壊して三日のうちに建てる者よ。十字架から降りてきて自分を救え』」と(マルコによる福音書15章24節)。
 

 こうして描かれるイエスの“受難”は、そこに何か答えにあたるものが示されてはいなくて、深い闇そのものがあるように見えます。敢えて言い得るとすれば、深い闇を引き受けて生きる人がそこにいることです。マタイによる福音書は、ユダの裏切りを三十枚の銀貨を理由にしてしまいました。マルコによる福音書は、そんな意味での理由を語りません。弟子の一人が裏切るであろうという、引き受けようのない深い闇のことを繰り返し予告します。それがイエスの“受難”なのです。
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