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2010年04月04週
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 多田富雄という名前と、書いたものが記憶に残ることになったのは、「診療報酬改定、リハビリ中止は死の宣告」(2006年4月8日、朝日新聞「私の視点 ウィークエンド」)でした。2007年夏頃“能・姨捨”のことを調べていて、「能の見える風景」(藤原書店)で、多田富雄の名前を見つけました。その時も今も、“能舞台”には出会っていませんが、そこで表現されていること、表現しようとしていることから、能が少しも古くならない芸術であること、“能とは何か”について学ぶ機会になりました。「お能とは異界からの使者たちが現れる場である。フランスの作家ポール・クローデルが『能では何事かが起こるのではなくて、何ものかが現れる』と言ったのは、まさにこのことである。現れるものの正体は、さまざまに意匠を凝らした『異界からの使者たち』である。」(多田富雄、前掲書)。能が、まず何より“異界からの使者たちの現れる場”として了解される“表現”であるとすれば、どんなことも可能にしてしまうことを意味します。たとえば、死者に生物が出会うようなこともです。
 

 ヨハネによる福音書には、イエスの葬られた墓での出来事として、マグダラのマリヤが「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」と言った後、「そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見」、更に、イエスがマリヤと言葉を交わし合う様子が描かれています。こうして始まる、死者と生物の出会いは、ヨハネによる福音書では「信じない者にならないで、信じるものになりなさい」「イエスは彼に言った。『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである』」と、“信ずる”という課題に集約されていきます。されていくように見えるのですが、“マリヤのうしろに、イエスが立つ”のは、“何事かが起こるのではなくて、何ものかが現れる”という意味で、急いで“信ずる”に置き換えない方がいいように思えます。死んだイエスが、生きたマリヤに現れる、ということはもちろん“虚言”です。しかし、その場である物語においては、イエスとマリヤの出会いはなまなましい事実として起こっています。安っぽく“虚言”にしてしまうことは不可能ではないし、むしろたやすいことです。生と死の条理・不条理を引き受けた自分をさらすことにおいて“現れた”イエスは、その物語では“虚言”ではないかも知れないのです。ヨハネによる福音書の言いたい“信ずる”は、その先にあるように読めなくはありません。“見ないで信ずる者は、さいわいである”は、何かを放棄した後にあるのではなく、生と死の果てることのない出来事を身をさらすことと、ほぼ同義なのです。
 

 「能の見える風景」の多田富雄は、“免疫学の世界的権威”で、その功績の一つが「免疫応答を調整するサプレッサー(抑制)T細胞」の発見です。そのT細胞はもちろん、専門の免疫学から「生命という大きなコンテキスト中での」意味を示したのが「免疫の意味論」(青土社)です。「T細胞と呼ばれる免疫細胞は、自分と思ったHLA抗原を持っている細胞を発見すると、さまざまな手段を用いて攻撃する」(前掲「免疫の意味論」)のT細胞は、“臓器移植”が行われる時に、逆に「除いておくことが絶対に必要な細胞」になります。“守る”はずのものが“攻撃”するものに変わるという逆説を、人は背負って生きているのです。という意味でも「生命という大きなコンテキスト」が軽視されることへの問いを、能との出会いの中で得てきたことが、「お能は、異界からの使者たちが現れる場である」という多田富雄の言葉から、知ることができるように思えます。


 2010年4月20日、多田富雄が亡くなりました。直接出会うことはありませんでしたが、書かれたものの読み手の一人として強く印象に残る人でした。「ご承知のとおり、私は5年近く前に脳梗塞の発作に見舞われ、右半身の完全な麻痺に加えて重度の言語障害が重なり、まだ一言も言葉というものをしゃべれません。幸い右麻痺にもかかわらず、失語症にも失視症にもならず、知的には何の障害も起こりませんでした。しかし、高度の嚥下障害という後遺症を残し、食物や水を飲み込むのが困難となりました。私にとって、食事の時間ほど苦痛なときはありません。まさに地獄です。」(「言魂」、石牟礼道子・多田富雄)。その“地獄”の中で、生きる為のリハビリが“180日”で打ち切られることの問題を指摘したのが、「“診療報酬改定 リハビリ中止は死の宣告”」です。「今回の改定は、『障害が180日で回復しなかったら死ね』というのも同じ」など厳しい状況が予測されることの指摘は、「免疫の意味論」での、脳死に関する議論を「鷺を鳥と言いくるめるような議論も現れる中で、生命の全体性について別の観点もある」との発言とつながっています。
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