キリスト教と教会のことを「・・・我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず、アーメン」と、定義しているのは使徒信条です。という“定義”をなぜ持つことになったかについて。「新約聖書は大いに役立つであろうが、一般信徒が日常生活において、信仰的実践に励む場合にも、同様な利益を与えるとは必ずしも言えない。教会はもっと簡単で明瞭な、そして力強い形式的な言葉を持って表出された福音の要約、いわば圧縮された福音を必要とした。それによって教会の信徒は自らの信仰告白をなし、信仰の証しをなし、他宗教や異端からの攻撃に対して自らを守ることができたのである」(「基督教の起源」、山谷省吾)。ということが理由で、キリスト教、教会の定義「・・・聖なる公同の教会・・・を信ず」も書かれることになりました。こうして、信ずる対象であるキリスト教の教会は、使徒信条では、“聖なる公同の教会”です。浄化され、そして汚すことがあってはならない、という意味を込めて“聖なる”教会です。その教会は、浄化され汚れてはいないという意味で、更に、それらのことにおいてはもちろん、過去、現在、未来において、変わることなく常に普遍的、絶対的という意味での“公同”の教会です。“信じる”対象なのですから、立派でないといけないし、そんなキリスト教と教会に向かい合う態度があるとすれば、信条を “称える”ことになります。使徒信条は、その文言を一言一句、間違いなく称え続けるべきものなのです。さり気なくではなく、“信ずる”“信仰”は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確信する」ことを意味しています(ヘブル人への手紙11章1節)。というようなキリスト教、教会のことですから、信条は堅苦しく、そして絶対に守るべきものなのです。
4世紀のアレクサンドリアで、同じアレクサンドリア生まれのアリウスとアタナシオスは、キリスト教、教会理解において全く逆の立場で論争することになりました。人間と神との関係で“キリストを人間的なもの”とするアリウスと、“キリストは限りなく神でもある”とするアタナシオスです。この論争で勝利したのがアタナシオス派で、招集されたニカイア会議の名を取って「ニカイア信条」が、その勝利を宣言しています。「・・・私たちは聖霊を信ずる。しかし、聖公会と使徒教会はこの者たちを呪う。すなわち、神の子がいまさなかった時代がかつてあり、彼は生まれる以前にはいまさなかったし、彼は無から創られたのだと主張する者たち、そしてまた、彼は父なる神と同質ではなく、可変的であると主張する者たちを呪う」。「・・・人々はつねに、神における人間の存在を少しでも大きくしようと努めてきた。もしかしたら、今日のキリスト教徒の多くがアリウス主義者であり、本人が気付いていないだけかもしれない」(「アレクサンドリア」、E.M.フォスター、晶文社)。にも関わらず、今日に至るまでキリスト教、教会の歴史ではアリウス的なものは繰り返し断罪されることになりました。
キリスト教会に、消火器を投げ込まれることが相次いで、そのことが話題になっています。そのことへの注意や片づけ方法のことでのお知らせが、教区事務所から送られてきて、気になっていました。気になったのは、お知らせが“被害”ないしは“被害者”の立場で書かれていたことです。消火器を投げ込まれた教会は被害者になって、加害者探しが始まっています。教会に消火器が投げ込まれて、いくばくかの器物(扉やガラス窓など)が損傷すれば、それは立派に被害です。ですが、それでもって、キリスト教、教会であることの根本のようなものが、壊されたことになるのかどうかは、よくよく吟味されていいように思えます。教会は、アタナシオスによれば、信条をたてにキリスト教の信仰を世に問うことになりますが、アリウスによれば限りなく人に寄り添うものとして理解されます。教会の歴史では、たとえばニカイア信条的には決着がついたことになっていますが、それで終わりということにはなりませんでした。“今日のキリスト教徒の多くがアリウス主義者であり、本人が気付いていないだけかもしれない”のは、ニカイア信条的に、一元的に決着をつけることに無理があるからです。
教会に消火器が投げ込まれたりすると、もちろん教会だって困ります。扉が壊れたり、ガラス窓が割られたりすれば、それの修理、修理代だって必要になります。なりますが、そのことでは、修理して修理代を払ったりするのは“事故”のようなものです。というのは、消火器を投げ込むという人の営みで、キリスト教、教会であることの根本のようなものが壊されたとは考えにくいからです(消火液がばらまかれたその後の掃除は大変なんだそうだけど)。
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