荒地で、雑草を抜くのを手伝いました。伸びはじめたばかりの、セイタカアワダチソウやギシギシでしたが、そこそこ苦労しました。というか、ほとんどは、顔をのぞかせている部分を、ちぎるだけで終わりました。くわとシャベルを持ちだして掘ることになったギシギシは、掘っても掘っても根っこは続いていて終わりそうにないので、60センチくらい掘ったところで止めてしまいました。10センチくらい伸びていたセイタカアワダチソウは、30センチくらい掘ったあたりに地下茎があって、そこから枝分かれして、地表に向かって伸びていました。それにしても、荒地の大小の砂利が混じった固い土を、突き抜けるようにして、セイタカアワダチソウは地表に芽を出しているのです。ですから、抜くのではなく表に出ている部分をちぎっても、ちぎられた部分から枝分かれするようにして、セイタカアワダチソウもギシギシも、何度でも芽を出してきます。しぶといのです。自然の条件が厳しくても、ちぎられてもちぎられても、しぶとく草抜きを徒労に終わらせてしまう雑草は、しかし生き抜いて、生き延びるだけの貫き方をしてはいるのです。
親が子どもを、子どもが親の命を奪ってしまう事件、更に年代を問わず自ら命を断つということが、この国では起こり続けています。それらのことの“何故”や“動機”が、あれこれ言及されますが、言われているほど明確ではなくて、言及されることを尻目に、何よりもそれが繰り返されます。つい最近も、生まれてすぐの子どもの事件が報道されていました「・・・生後9日、絞殺の疑い/川崎33歳の母親逮捕」(2010年5月5日、朝日新聞)。
子どもの誕生をめぐって、豊かな言葉、生活文化をこの国は伝承してきました。5月の空にこいのぼりが泳ぐのは、明日に向かって健やかに育つことを願ってのことであり、そうして、子どもたちと大空を見上げたのは豊かな生活文化の証しでもあったりします。切迫した飢餓の、生存の限界で、“子殺し”ということが、避けられなかったという事実もこの国では繰り返されてきました。生後9日の子どもを絞殺する事件は、生存の限界で起こっているようには思えません。
「橋」(橋本治、“文学界”、2009年10月、11月号)は、1960年代から始まる、およそ50年の二組の家族の営み、歩みを描きます。一組の家族の娘は、「・・・激高した末に夫に殴りかかり、その先で死体を切断して、平気で生ごみのように捨てて回る」ことになり、もう一組の家族の娘は「マスコミは、『娘を殺した女が、虐待の事実がばれることを恐れて、近所の男の子を殺した―他に幼児連続殺人の犯人がいると演出する為に』と言いたてた」ということになるまで、自分たちが何を失うことになるのか気が付きませんでした。気付いた時、取り返しのつかない事件の渦中にいることになった、というのが正しいのですが、どうして、そんな事になってしまったのか。
たとえば、食べるということは、空腹を満たすということであるのはもちろんですが、単純にそうであると理解してしまうとすると、食べることは限りなく貧しくなります。食べる時、食卓を囲むことには意味があり、意味を問われる営みでもあるのです。食卓を囲んだ人たちのそれは家族であって、そこに座った限り言葉を交わし合うということが起こります。もしそこで誰かが無言であったり、もし誰かがうつむいていたとすれば、そのことを問われたり、問うたりすることが、必然的に起こってしまうのが、食卓を囲むという営みです。それを、たった一回限りではなく、日々、営々と繰り返すのが家族という営みなのです。「橋」が描くのは、およそ50年間、この国では食卓を囲むという営みを、そうしてあるはずの家族という営みも、どこか置き去りにしてきたことです。意図的に、全くという訳ではありません。気が付いてみたら、手を抜いていたという具合にです。
荒地の雑草は、荒地という厳しい条件で生きて、人の手で始末されてしまいかねないことがあったとしても、そこを自分の居場所として生き延びようとします。そして、生き延びもします。しかし、掘っても掘っても尽きないくらいの、地下茎・根を伸ばしたり、地下深くに張りめぐらされた地下茎・根から枝分かれしたりという具合に、手抜きはしていないのです。生物としての、自分たちの生きていく条件を知っていて、あるいは条件が整って初めて地表に顔を、芽を出すことが可能になります。謙虚なのです。
生後9日の子どもを、33歳の母親が絞殺したりするのは、事件です。事件ではあるのですが、たとえばおよそ50年、この国の人たちが営んできた生活が結果的にそうなったとしてもあり得ることです。荒地の雑草の地下茎・根にあたるものを、生活の中で蓄積してこなかったのですから。それは、1年でも2年でもなく、10年でも20年でもなく、まさしく40年、50年の歳月、食卓を囲んでする家族の食事の時間を惜しまないことで、初めて蓄えられるものであったりもします。それを怠った結果を生きているのであるとすれば、今日も明日も何が起こっても不思議ではないということになります。
待つことを 教えてくれたのは
お母さんでした
そうですね
一緒に じっと待ってくれたのは
お母さんでした
そうでしたね
悲しむことを 教えてくれたのは
お母さんでした
そうですね
一緒に 悲しみを耐えてくれたのは
お母さんでした
そうでしたね
夜のあることを 教えてくれたのは
お母さんでした
そうですね
一緒に 夜を過ごしてくれたのは
お母さんでした
そうでしたね
歌うことを 教えてくれたのは
お母さんでした
そうですね
一緒に 歌を歌ってくれたのは
お母さんでした
そうでしたね
(2010年5月9日 母の日)
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