父の世代の人たちの戦争を、その具体的な体験に踏み込んで聞く機会は、ほとんどありませんでした。一兵卒として招集された叔父は、戦争が終わった時が旅順(りょじゅん)で、ソ連軍の捕虜として、シベリアに抑留されることになりました。抑留者を乗せた興安丸が舞鶴港に入港する度に、兄である父は迎えに行ったそうです。2年間の捕虜生活で帰って来た叔父は、体調もおもわしくなく、兄の家族と同居していました。その頃の叔父から、死んだ仲間が、朝隣りでカチカチに凍ってしまっていたこと、そんな仲間をトラックで運び、掘った穴に投げ込んだことを、囲炉裏端の“怪談話”として聞かされました。叔父は、生涯体調が思わしくないまま、4年前に腎臓の障害で亡くなりました。同じ頃に、中国大陸にいたもう一人の叔父からは、戦争の話を聞くことはありませんでした。
父は、小学校教師だった為、召集されることはありませんでしたが、中国大陸での兵役の体験を、アルバムの写真を示しながら、自慢していました。「満蒙開拓青少年義勇軍」(上笠一郎、中公新書、1973)を手にする機会があって、父たちの働きで富山県氷見市の小さな村からも中国大陸・満蒙に送られ犠牲になった青少年のいたことも知りました。小学校教師であって、日本軍の後方応援組織の一つである”在郷軍人会”の地区代表をしていた父は、占領軍(GHQ)の命令で2年余り公職追放になります。それを“不当”だとした父は、追放解除後の粘り強い運動で、復権を勝ち取ります。兵役訓練の時のことを、おもしろおかしく話す父、青少年を満蒙に送り出すことに熱心であった父とは、そのことをめぐって繰り返し議論してきました。その時も、それから後も、戦争の時代と、そこで自分が生きたことを、えぐる言葉を聞くということはありませんでした。
7月9日、宝塚の父が亡くなりました。10年ほど前に、父自身の書いた短い戦争体験の手記と、父の戦場であった、東部ニューギニア・パプアニューギニアの戦争の手記・記録を、父から預かることになりました。「ウエワク/補給杜絶二年間、東部ニューギニア野戦貨物廠将兵・軍属かく戦えり」(南海派遣第二十七野戦貨物廠元陸軍主計大尉・針谷和男)、「パプアニューギニア地域における旧日本陸軍部隊の第二大戦間の諸作戦」(田中兼五郎)、「南十字星の戦場」(第八方面軍作戦記録)などです。「ウエワク」の“南海派遣第二十七野貨物廠”は、宝塚の父が属していた部隊で、記録の中に父の名前が数回登場します。「食糧補給の重要任務を有するわがシオ貨物廠も松尾俊美主(計)少尉の指揮で、健康者全員が出勤して作業に取り掛かっていた」(昭和18年12月頃、p.125)。“シオ”は、パプアニューギニア北東ニューブリテン島との間の、ダンピール海峡に面した地点です。その時の部隊の所在、編成は流動的で“昭和19年2月下旬~3月中旬頃”には、第二十七野貨物廠、ウエワク本廠、ナガタ支廠、“シオ出張所”の“山下三郎主(計)中尉、松尾俊美主(計)少尉外下士官兵20名”は“ウエワクに向かい転進中”となっています(前掲書「ウエワク」p.180)。この“ウエワク転進中”は、米豪軍の攻撃を受け、シオからウエワクまで、約600キロのうちの、ほぼ中間のマダンまでの300キロの“敗走”のことです。「シオ、キアリを出発した中野集団一万三千人が目指したのは、西方300キロの軍の本拠地マダンであった」(前掲書「ウエワク」)。昭和19年1月19日に開始し、2月11日に目的マダン近くまで達する、この時の敗走の“遺体分布概要”が「ウエワク」には示されています。それによれば、1月20日のシオ、キアリから、1月23日のボアナまでに約1600人が死んだと記されています。米豪軍との戦闘の死ではなく、海岸線の道なき道の敗走で、「霧雨、泥濘、あがけばあがくほど底知れぬ泥沼にはまりこんでゆく」「この世ならず地獄絵図・・・既にフィンシュの陣地を棄てた時に、体力の消耗は限界にきていた」のが、その時の兵士たちの死でした。ほぼすべて、病・餓死だったのです。更に、この時の敗走は、途中から4000メートル級の山、サラワケット山脈も越えることになり、その至る所で“落命”(病死・餓死に加え・転落死)するものが続出し、その数は3500名、「マダンに到着した約9500名も体力気力共病憊の極みに達した形骸だけの人間の集団でしかなくなっていた」(前掲書「ウエワク」)。こうして敗走する兵士の中に、宝塚の父もいました。しかし、この敗走はそこで終わらないで、マダンから更に西300キロのウエワクに向かうことになります。この敗走も、道なき道で「セピックッテム河下流の大水郷湿地帯の通過」にあたって「遂に泥土の中に死んだ者も何人かいたのである。その屍は埋葬すべき場所とてなく、その侭放置されるという凄惨な地獄の様相を呈した」(前掲書「ウエワク」)。こうして、敗走する兵士たちの中に宝塚の父もいました。
その父が戦争について多くを語ることなく、2010年7月9日に亡くなりました。
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