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小さな手大きな手

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2010年07月03週
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 母が亡くなった時、家族の思いをはるかに越える葬儀が予測されることになりましたが、いくつかの点で家族として身近に生きてきた思いを貫くことになりました。その一つである“遺影”は、型どおりの正面を向いた無表情のものではなく、かと言って亡くなるずっと前の、いわゆる若いころのもので間に合わせるということもしませんでした。81歳で亡くなった母は、酷使した生活の結果の身体ということもあり、60歳代、70歳代を大きな病気をすることになりました。しかし、たとえ不便でも自分が過ごしてきた田舎での生活を、生涯大切にしていました。そうして大切にしていたことの一つが、“墓を守る”ことでした。村には共同墓地もありましたが、住んでいる家の小さな谷をはさんだ向かいの丘に代々先祖・家族が葬られている墓地がありました。子どもの頃の墓地は、周囲が畑で、さつまいもなどが植えられたりしていました。ずいぶん前に、耕すことのなくなった畑には、隣りの竹やぶがどんどん侵入し、竹やぶの中の墓地になってしまいました。そんな墓地を、田舎のお盆より一週間前には、草刈りをし備えをすますというのが、父や母の決まりになっていました。そんな墓地の、ローソク立ても、線香立ても、竹やぶの竹を使った父の手作りでした。それらの手作りも、墓地への道や墓石の周囲の草刈りも、父や母の手に余ることになって、合図があると西宮から出掛けることになりました。亡くなる2年前、墓地の下まで車で、車を降りてからは一歩ずつ歩いて墓地まで辿りついて、片隅に座り込んだ母は、父、息子、孫たちの墓掃除の様子を、それは穏やかに眺めていました。そんな母の全身像が、母の告別式の遺影になりましたが、たくさんの人たちから、いい写真だと言ってもらいました。
 

 告別式の“祭壇”で、花に囲まれて掲げる遺影の由来は、“陛下の御写真”なのだということを、確か誰かから聞いたことがあります。告別式などの時に、掲げられる遺影に、深々と頭を下げたりするのは、陛下の御写真に頭を下げた、かつてのこの国の人たちの名残りなのかもしれませんん。父は、自分の遺影を用意していました。中学の現役の校長だった時のものですから、亡くなる30年以上前の写真ということになります。遺影はそれだと、口にしていたらしいのですが、残念ながら告別式の時にはそれが見つかりませんでした。告別式で使うことになったのは、亡くなる2年ほど前に施設で世話になっている父を、長年住み慣れた田舎の家に案内した庭で、たまたま見つかったふきのとうを見つめている父の様子の写真です。92歳の時の写真ですから、元気に写っているという訳には行きません。高齢の人を写真に写すのは、たとえ父の場合であっても気軽にという訳には行きません。どうであれ、さらすことで生きている、“老い”を、そのまま写真が捉えてしまいます。92歳のその時の父は、聞く事も難しく、しゃべることもほとんどない父でした。その父が、住み慣れた田舎の家の春の庭で、ふきのとうを手にしてそれを見つめている様子は、ただ老いを晒しているようには見えませんでした。そこに、人として向かい合う人がいて、共有する時間がある時、人としての表情、人としての佇まいを取り戻すのです。
 

 宝塚の父の告別式の遺影は、世話になっていた施設の集まりに参加していた時のひとこまの、父らしい笑顔の写真です。そんな父との最後の別れにあたり、遺体を覆っていた布を外すか外さないかで、意見が分かれました。約200キロカロリーの点滴が続いた父の頬はこけ、目はくぼみ、自慢の耳だけが父の名残でした。そんな父に、覆っていた布を外して、別れてもらうのかどうかは、確かに安易であってはならないことでした。そもそも、告別式で棺を開けて遺体との最後の別れをすること、それに参列した多くの人に加わってもらうことに、少なからず違和感を持ってきました。そうして晒すことを、本人が望むかどうかは確かめようがないのですから。家族にとって別れの時が、終わりになって欲しくないとしても、あり得ることです。例えば、告別式を司式したりするのは、その別れの時のすべてを引き受け、さり気なく前へ進める “仕事”をしているからだと理解しています。父との別れに際しては、結果的には覆っていた布を外すことになりました。確かに、頬はこけ、目はくぼんでいましたが、決して醜くはなかったこと、20代の初めの戦争体験と、その後の人生のすべてを引き受けて生きた人として、その人を直視して別れてもらいたいというのが、その時の決断の意味であったと理解しています。
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