子どもの頃の田舎の生活では(1950年、昭和25年頃)、食事を作ったり、風呂を沸かしたりする燃料はマキで、冬、温まる炬燵や火鉢の燃料は炭でした。冬用の燃料は、雪が降る前に家族総出で山から運ぶことになっていて、歩けるようになった子どもは、たとえ一本でもマキを背負わされました。
敗戦後3年経って、シベリアから帰ってきた叔父は、近所の人たちと炭焼きを仕事にしていました。裏の雑木林の炭焼き小屋のすき間から、真っ赤な炎がふき出していたのを覚えています。焼き上がった炭は、30センチぐらいの長さにノコギリで切り、炭俵につめて出荷していました(いたのだと思います)。その炭俵を、囲炉裏端で父や母も編んでいました。横に棒を渡した台があって、細い縄をいっぱいに巻いた短い棒が4個ずつ棒をはさむようにぶら下がっていて、70~80センチの長さに切ったカヤを、1本ずつ編んでいくのです。細い縄を巻いた棒の重みで、手際良く、しっかりと編んでいく様子を、子どもたちは飽きずに眺めていました。冬、広い居間には、囲炉裏とは別に、炬燵や火鉢も用意されていて、その燃料が炭でした。“火消し壺”の中から、消し炭を取り出し、火鉢の真ん中あたりに並べ、囲炉裏の火を移すと、火は簡単に消し炭に燃え移ります。その上に炭を乗せてしばらくすると、青白い炎で炭が燃えはじめます。炬燵の場合も同様でしたが、勢いよく炭が燃えている炬燵から、ふらふらしながら猫が這い出してきたりしていました。一酸化炭素中毒になってしまったのです。
炭に焼かれた裏の雑木林で杉の植林が始まったのは、1950年(昭和25年頃)からです。雑木林だった山の斜面に、杉の苗を植える父たちの後を、ころびそうになりながら追っかけていました。そんな時に父は、「この木が大きくなったら、おまえの分もあるからな」と、嬉しそうに話しかけていたりしました。雪が降る前には、植えた一本一本の木に、ひとつかみのワラで覆うのは、植えた杉の先っちょを、ウサギに食べられたりしない為の“帽子”です。そうして、翌年の初夏の大仕事が下草刈りです。雑木が伐採された林では、猛烈に雑草・木が伸び始め、あっという間に植えた杉の苗を覆ってしまいます。そんな雑草・木を手鎌で刈るのが、下草刈りです。初夏の強い日差しのもとでの短い休憩時に、大人たちは切れ味の落ちた手鎌を研いだりしていました。そうして植えて育てた杉のことでは、10年ぐらい経って、“枝打ち”をし始めていることなどのことが耳に入ってきました。
日本が戦争に負けたあと、一旦伐採された山(里山)に、成長の早い杉などの植林が奨励されることになりました。苗を植えた後、そこそこ手をかけることになった杉林も、それが20年経った頃には、それを手入れする間伐・枝打ちなどの労働力が得られにくくなりました。更にその後、手入れする人手が得られなくなり、「・・・おまえの分もある」と言われた杉林は、荒れ放題になりました。薄暗い杉林には、枯れて落ちた枝が散乱し、冬の雪で、裂けるようにしてして折れ重なった杉で、更に足の踏み入れようもなくなりました。間伐も、枝打ちも、行き届かなかった杉林は、伸びきった先の枝が光をさえぎり、林床には全くと言っていい程、緑の草木が育つことはなくなってしまいます。「・・・おまえの分もある」と言われた田舎の杉林は、その後も放置されて荒れ放題です。
昨年10月から、篠山市後川を訪ねるようになりました。その後川の、旧後川小学校から見上げる、大野山に連なる山々の小さな谷には、ふもとから中腹くらいまで、杉が植えられていて、尾根の雑木とは樹形も緑も異にしているのが分かります。
今年になって、足を運んでみた杉林は、大小の杉が入り混じっている様子、林床には折れた枝が散乱している様子から、間伐も枝打ちも行き届かなかったように見えました。後川から見上げる大野山に連なる山々の北斜面は、少しばかり歩き回って気が付くのは、大小の岩です。小さな谷川の大小の岩だけではなく、杉林一面に、枯れて折れて落ちた枝を押しのけるようにして、大小の岩が点在しています。それら大小の岩は、全面緑の苔におおわれています。北斜面で、地下水が山の尾根近くまで、しみ出しているなどの条件が、そんな岩の様子になっているのだと考えられます。
昨年、久しぶりに訪れた雌阿寒岳では、ふもとのトドマツ、エゾマツなどの樹床で、ギンリョウソウをたくさん見つけました。20年近く前に、野尻湖の側から黒姫山に登っていて、登山道の階段のくぼみに、ギンリョウソウを見つけました。子どもの頃、田舎の山を歩いていて、半透明の不思議なその“植物”に驚いた記憶があります。後川の、大野山のどこか斜面で、いつかそのギンリョウソウと出会っても不思議ではないと思っています。
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