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2010年08月04週
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 1995年1月17日の地震の後、礼拝などで読む聖書の言葉が、新鮮で身に迫る言葉として読めたり、聞こえたりしたことを思い出します。そこにあったものが地震で壊れ、身近な人の死が次々に判明するような状況の真っ只中を生きることになった時、聖書の言葉が新鮮で身に迫る言葉として読めたり、聞こえたりしたとすれば、かつて身に迫る状況を生きた人が、そのまま書いたかも知れないと思ったりしました。たとえば「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失うものは、それを救うであろう」と書かれているのは、命を“失う”か“救われる”かの瀬戸際の言葉として書き遺されたのであって、その“意味”をあれこれ議論することとして書かれているのではないのです。同じように、「わたしたち強い者は、強くない者たちの弱さを担うべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない」とパウロが書く時、抜き差しならないそんな状況があって、言葉によって示されているのであって、生き方の指針が示したい訳ではないのです。そのように生きた人たちが居て、その人たちの言葉が聖書である、とふと思ったのが、15年前に聖書の言葉から受けた“感覚”でした。
 

 関西神学塾・「教会と聖書」“2010年合同合宿”が、篠山市後川の渓谷の森公園で行われ、参加することになりました。講師は市川哲さん(篠山教会牧師)、岩田雅一さん(八戸北伝道所牧師)、千葉宣義さん(八幡ぶどうの木教会牧師)の3人でした。
 

 市川さんは“生きもの”に強い関心があって、やたら詳しいのに驚かされることがあります。京大農学部水産学科から始まって、東大でも水産学を専攻、水産庁の仕事をしていたのに牧師になりました。口蹄疫問題の時には、宮崎まで行って“殺処分”の事実も、現場の人たちから身近に聞いてきました。生きものに強い関心があってやたら詳しいのは、生きものの“生き死に”のことが、びんびん響いてきてしまう人だからです。合宿のテーマは、マルコによる福音書1章15節「時は満ちた。神の国は近付いた。悔い改めよ。そして福音によって信ずることをせよ」を手掛かりに、「“神の国”を引き受け、生きるということ」でした。“生きもの”に強い関心がある市川さんには、「農漁民の中で生活してきたイエスのまなざし」に、そのまま神の国を見ます。更に言い方を変え、「農漁民の労苦を知っているからこそ、努力だけではどうにもならない状況の行方を『神の国』に敢えて譬える」、だから、それを引き受ける現場がそのまま神の国であるとしても、不思議ではなくなります。
 

 千葉さんは「教会と聖書」に、教会をスケッチしてきました。特に、どこかの教会を選ぶのではなく、日頃の生活の中で出会う、“ありふれた教会”の“ありふれたスケッチ”です。ありふれた教会は、しかし、塔であれ、門であれ、窓であれ、それが建っている場所であれ、なにがしかの意味と、存在理由を必ず持っています。しかし、千葉さんのスケッチする教会は、スケッチであることによって、その一つ一つをありのままに伝えます。ありのままの、たかが建物の風景が、ほんの少しだけ、しかし確実に「神の国」の理解を伝え、伝えることによって「神の国」から厳しく問われていることを見せてくれるのが、千葉さんの教会のスケッチです。
 

 岩田さんは写真家です。いいえ、写真で神の国を問う牧師かもしれません。岩田さんの写真は、“アナログ”でなくてはならないのは、写して残された一枚の写真が、生きたものでなくてはいけないという確信です。そのことを体現する一つが、写す時の“ノー・ファインダー”なのだそうです。ファインダーで確かめて、シャッターを押すのではなく、写ってしまったものが写真で、岩田さんにとってその写真が合宿のテーマである「神の国」ということになるのだそうです。見方によっては、そんな写真は矮小な人の営みの事実にしか過ぎないということになりますが、岩田さんをそれとして認めながら、しかし「矮小な人の営みの事実、即ちカオスにおいて、神の顕現を予感する」と言います。岩田さんの写真は、「神のカオスを引き受ける自身(己)の解体と再生、そのことを人に語り、共生する」のだ、とも語っていました。
 

 昨年、プロテスタント日本伝道150年を企画した人たちのリーフレットに書かれていたスローガンの一つが“生き生きと聖書を読もう”でした。聖書が創造を語る時でも、兄弟同士の憎しみを語る時でも、隣人を語る時でも、敵について語る時でも、“生き生き”としているとすれば、そこを生き生きと、生々しく生きた人たちの言葉として語られているからです。例えば、プロテスタント伝道150年のスローガン“生き生きと聖書を読もう”が、そうはなりにくいのは、読む人が生き生きと生きているとは限らないからです。それが古代の文書である限り、聖書もまた、かびくさいだけです。それを、生き生きとよみがえらせるのは、生き生きと、生々しく生きる読み手を得ることによってしかあり得ないのです。
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