牧師室として使わせてもらっていた部屋を少し片づけることになりました。目標は、5、6人の会議ならできてしまえるくらいのゆとりを持たせることです。
それで、片付けとなるのが本で、約1/3くらい処分することになりました。一冊一冊、隅から隅まで目を通した訳ではありませんが、それを入手する理由があって、それなりの時間をかけて読み、書棚に並ぶことになったとすれば、人の生きた歩みそのものが一冊の本ということになります。片づけるのは、生きてきた何かをそぎ落とすぐらいの意味はあります。残すことにしたものの中の一つが「雑誌中國」で、1968年8月号(57号)から、1972年3月号(第100号)まで購読していたようです。第57号の特集は「国交回復の条件」で、竹内好が「いま、中国との国交回復の声がまたあがっている。『また』というのは、過去に何度もあって、その都度流されたからである。それほどこの問題は、複雑であって、解決困難である」で始まる解説を書いています。戦争に敗けた日本は、アメリカのアジア政策の強い影響の元、日本だけの判断で中国との国交回復を実現することはあり得ない状況でした。しかし、加害者でありながら、敗北した相手と国交の回復が実現しないということは、とても不自然なことです。不自然でしたが、アメリカの強い影響のもとで、言わば“敵対”に近い関係を続けていました。
そんな中で、中国あるいは中国の人たちと付き合うことの多かった人たちによって発行されたのが「雑誌中國」であり、それを発行する“中国の会”でした。雑誌には“「中国の会」の取り決め(暫定案)”が掲載されることがありました。
1.民主主義に反対はしない。
2.政治に口を出さない。
3.真理において自他を差別しない。
4.世界の大勢から説きおこさない。
5.良識、公正、不偏不党を信用しない。
6.日中問題を日本人の立場で考える。
中国との出会いの始まりは魯迅でした。高校生ぐらいの時です。そして、中国について、中国を舞台にしたものも読むようになり、それが「雑誌中國」「中国の会」の竹内好、武田泰淳、橋川文三などの書いたものでした。多分、この人たちに共通するものの考え方が“「中国の会」の取り決め(暫定案)”に示されていて、その時も、そして今もほぼ同意出来る内容だ思っています。
中国、中でも魯迅の書いたものとの付き合いは、断続的に続いていて、学生の頃「魯迅選集」(岩波書店)で読み、「魯迅全集」(全20巻、小学館)は、ずいぶん高価だったというだけではなく、“片付ける”対象にはならない本です。「魯迅文集」(筑摩書房、竹内好訳)なども、たまに引っ張り出して読むのは、先の“「中国の会」の取り決め(暫定案)”に、貫かれた思いが、そのまま魯迅につながっているからだと思っています。あるいは、その貫き方においては、もっと激しく、もっと徹底して、その身を削りながら、時代と向い合っていました。
「野草は、その根、深からず、花と葉、美しからず、しかも、露を吸い、水を吸い、ふりた死人の血と肉を吸い、おのがじく、その生存を奪い取る。生存に当って、踏みにじられ、刈り荒らされ、ついに死滅と腐朽にいたる。だが私は、心うれえず、心たのしい。高らかに笑い、歌をうたおう。私は、野草を愛する。だが、この野草をもって装飾とする地を憎む」(魯迅、野草・題辞)。
その後、中国や中国について書いた本を手にすることはほとんどありませんでしたが、数年前から「黄翔の時と構想/狂飲すれど酔わぬ野獣のすがた」などをぽつりぽつりと読んでいます。黄翔(ふぁんしゃん)もまた、魯迅の影響を強く受けた詩人で、現代中国の指導者たちと激しく闘っている中国人の一人です。
“本”というのは、時代や状況を指し示すもの、更には、人として生きることの検証を迫られるものとして読んできましたから、片付けるのは難しくて、約2/3は残ってしまいました。
片付けでは、部屋に置いて着替えていた衣類も、大幅に移動することになります。夏になると、毎日数回着替えていたTシャツ、約40枚の刺繍の入ったGパンの分類と着替えは間に合わない場合も出てくるかもしれません。
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