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2010年10月01週
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 日本基督教団は、「未受洗者への配餐をしている」ことを理由に、一人の教師(牧師)の“免職”を決めました(「北村慈郎教師の免職決定の通知」、2010年9月21日)。問題になった未受洗者への配餐、即ち、“聖餐”は、マルコによる福音書14章22〜26節の、イエスと弟子たちが食事をしたとされる記述などが起源と考えられます。この、いわゆる“最後の晩餐”が、キリスト教会の礼典(宗教儀式)として伝えられ、今も実施されています。聖餐はキリスト教の歴史の中で様々に解釈されてきましたが、上記マルコ福音書の記述などから “食事を共にする人たちの間の出来事”だとするのは、そんなに間違った理解ということにはなりません。


 その聖餐で、パンとブドウ酒を未受洗者にも配餐したというのが、今回の免職の理由です。配餐を受けられるのは、“信徒”に限られるのに、“未信徒”にも配餐したことが「本教団の秩序を著しく乱す行為」であるので“免職”ということになったのです。信徒は「バプテスマを受けて教会に加えられた者」で、聖餐で配餐を受けられるという意味で、“陪餐会員”とも呼ばれます。配餐を受けられない“未陪餐会員”である未受洗者は、規則上は信徒とは厳密に区分され、“未信徒”なのです。そんな未信徒を経ての信徒ですから、その責任も重く、「理由なく、3年以上教会に出席せず、かつ献金その他の業務を怠った時」“会員別帳に移す”と“処分”されたりします(教規140条)。
 

 という重い責任のある信徒であって初めて、配餐を受けることができる訳ですから、未受洗者に配餐したりすると、その牧師は“免職”となって当然なのです。それが“免職”になる、キリスト教会にとって未受洗者への配餐のような重要な規則違反は、ウイリアム・ティンダルが火刑になったり、「黒の過程」(マルグリット・ユルスナール)のゼノンが火刑を宣告された16世紀のキリスト教世界であれば、文句なしに“火刑”です。火刑ではなくて免職なのは、教会的規則が及ぶ力や範囲が今の時代のこの国のキリスト教では、その程度だからですが、それさえも錯誤であるのは、観念と事実とが見極められない程度で決められた免職処分であるからです。この国ではキリスト教も免職処分も、それが及ぼす影響は微々たるを通り越して、無いに等しいのが現実です。西宮公同教会の場合、日曜の礼拝に集まる人は約30人です(子どもたちの礼拝である教会学校は、幼稚園と小学生以上の場合、それぞれ約60人)。未受洗者と受洗者の比率はおよそ2:1ですから、集まる受洗者・信徒は約10人ということになります。この地域で、もしキリスト教徒(受洗者)を捜すとすれば、西宮公同教会が上記の程度であるように、極めて少数のはずです。要するに影響力ということだったら、国はもちろん、狭い地域であっても無いに等しいのです。ですから、未受洗者に配餐した牧師が“免職”になったとしても話題になることはありません。もし考えなければならないことがあるとすれば、未受洗者配餐を“免職”にして大騒ぎする感覚(観念)と、そんなことが顧みられない現実(事実)とのずれなのです。


 今回“免職”になった北村慈郎牧師及び紅葉坂教会が、教会的営みとして目指しかつ実践してきたのは、開かれた教会の開かれた聖餐で、それは次のように要約されています。「『開かれた聖餐は、教会の礼拝に集うすべての人とともに、この世で最も小さくされた者のために全存在をささげられたイエスの出来事を想起する教会的行為に』という、そのことを指しています。」(「自立と共生の場としての教会」北村慈郎)。
西宮公同教会での配餐は未受洗者も含みます。他の経緯もあって、その配餐をする牧師が未だに“補教師”であるなど、「本教団の秩序を著しく乱す行為」ということでは、更に大きな規則違反をしています。1941年に、キリスト教の諸教派が合同して日本基督教団になる時、教師、補教師の二重教職制を採用することになります。そのまま教師とは認めがたいという教派の教師は当面補教師の資格に留め、改めて試験をした上で、正式に教師に認定するという制度です。その後日本基督教団の教師制度では、新任の教師はすべて、補教師を経て正教師になるということで今日に至っています。その制度で、正教師だけが聖餐・洗礼などをできる、となっています。
西宮公同教会の牧師は、正教師ではなくて補教師(正教師試験を受験しない)です。なのに、未受洗者への配餐などを行っていますから、その「本教団の秩序を著しく乱す行為」は “免職”に値するのはもちろんです。それらのことを無視して今日まで来たということではなく、キリスト教の世界に生きて結果的に立ち続けた位置がそうだった、というのが理由です。そうして正式ではない牧師をしていて、本人はそのことで困るということはありません。牧師という資格(ほかのいかなる資格も含め・・・)で生きたことはないという意味では困りませんでした。かつて、西宮公同幼稚園を卒園する子どもの就学のことで、近くの小学校の教頭と交渉していて「・・・それでも牧師か!」とどなられたりもしましたが、「それでも教師か!」と言い返しておきました。補教師はもちろん、教師の未受洗者への配餐は16世紀だったら間違いなく“火刑”でしょうが、21世紀では悪くいっても“免職”です。ですから、これからも補教師で、更に、未受洗者にも、拒まれない限りは、配餐を続けることにします。
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