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2010年10月01週
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卑怯と闘う同志でありたい
小さき小さき負傷者たちの為に
このキリスト教徒は野蛮である

2010年10月26日
日本基督教団西宮公同教会牧師
菅澤邦明


 1937年7月から始まった日中戦争では、1945年8月15日まどの長い長い戦争の始まりだったのですが、いわゆる宣戦布告というものはありませんでした。相手国である中国を認めないまま、しかも立ち向かってくる相手中国の人たちを、匪賊・ギャングと定義し、匪賊戦という戦争をします。匪賊と言われた人たちは、そこで生活する日常がありましたから、その生活のすべてが踏みにじられたとしても、無条件に(死んだように)従わせるというのが、その時の日中戦争でした。


 「この決定を受けて、貴方が悔い改めをもって復帰の道に進まれることを願う」で示され、貫かれていることが日中戦争の討匪戦そのものなのは、私であることの意志のすべてを許さない、悔い改めという絶対服従が求められるからです。


 キリスト教的なものが一体となって、ヨーロッパ人が新大陸(たとえば南北アメリカなど)に進出するにあたり、既にそこにいて、そこを自分たちの世界として生きていた人たちを、野蛮人と定義しました。理由は、生活習慣や形が自分たちと著しく違っていたからです。狩猟や採取が主であった人たちとの向かい合い方、所有という場合の理解が違う人たちとの出会い方を、一方の価値観だけで判断してしまった時、その違いを野蛮とし絶対的な同化を求めたのです。その時、同化を拒むことが更に野蛮と断定され、その存在の否定のためだったら手段を選びませんでしたし、歴史、存在そのものを否定することになりました。結果「よいインディアンは死んだインディアンである」ということになりました。


 「この決定を受けて、貴方が悔い改めをもって復帰の道に進まれることを願う」には、最初から決まった結論があって、それに従わせることにおいては、有無はありませんでした。その人たちが守り育ててきた生きた歴史、存在、たとえば「小さき小さき負傷者たちと生きる」というようになることが顧みられるということもありませんでした。


 「未受洗者への配餐」を理由に、紅葉坂教会北村慈郎教師が免職になりました。北村慈郎教師には「この決定を受けて、貴方が悔い改めをもって復帰の道に進まれることを願う」と、悔い改めが要求されています。あなた(がた)の守り育ててきた生きた歴史、存在、たとえば「小さき小さき負傷者たちと生きる」というようなことを放棄するなら、復帰の道はなくはないという訳です。


 それが、日中戦争を始める事を討匪戦と言った人たち、先住民を野蛮人と言った人たち、と同じ支配者や権力者の言語であり立場であるのは、有無を言わせないということでは同質だからです。


 手渡された「信仰の手引き」(日本基督教団宣教研究所編、2010年10月1日)は、有無を言わせないということでだったら、ほぼ同じ内容でまとめられています。「(それは)教会と信仰者を、教会と教会たらしめる原点に引き戻すからである」(同、序・日本基督教団総会議長、山北宣久)。信仰の手引きの、202からなる問いの答えは全て一つです。人が、神の前でする人の営みでしかあり得ない信仰は、たった一つの答えに集約し得ないというのは、キリスト教と言う宗教がその歩みで学んできた成果です。なのに、一つの答えが指針になってしまうとすれば、自らの歩みをなおざりにすると同時に、神の世界に踏み込んで神を冒涜することにもなります。


 「問1『あなたにとって、無くてはならないただ一つのものとは、何ですか』答え『神の言葉です』」。付けられた解説には、そのように問いを立て、そのような答えになる根拠のことが言及されています。そして根拠は、伝統と言う以外何も言い得てはいません。そもそも、問いの立て方が間違っています。“人にとって大切なこと”として、立て得る問いがあるとすれうば「あなたが人として生きる時もっとも大切なのは何ですか」くらいです。“してはならない”“ただ一つ”が、誰のどんな場合も例外なく当てはまるということはあり得ないことを、キリスト教の歴史が学んできたことなのですから。そして、答えはその人が守り育ててきた生きた歴史、存在によって違っていて、その出会いと対話こそが、神の前で生きる人の営みとして許されている、と言い得るのです。
 と思える程度のことが許されないとしたら、「このキリスト教は野蛮である」と言わざるを得ません。


 (「未受洗者への配餐」を理由に、(教師、牧師を)免職になったとしても、北村さんも紅葉坂教会もそれを受けて立つ覚悟でいます。その為に手続きを多数決で変更して決めた免職は、あまりに乱暴と言わざるを得ません。何よりも、免職は最初から決まっていて、有無を言わせないところが“野蛮”に思えたので、10月26日に教団総会が始まる直前にまとめ、議場で配布したのが上記の文書です。)
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