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2010年11月04週
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 しばらく中断していた死刑が執行され、相変わらず死刑判決が続き、10月25日には犯行当時18歳9ヵ月の“少年”の死刑判決が下されることになりました。2010年2月10日、宮城県石巻市で起きた、「元交際相手の少女(18)の実家に押し入り、少女の姉(当時20)と少女の知人の女子生徒(当時18)を刃渡り約18センチの牛刀で刺して殺害、さらに、その場にいた少女の姉の知人男性(21)の右胸を刺して大けがをさせた」事件の死刑判決です。判決理由は「犯罪性向は根強い。他人に対する共感が全く欠けており、異常性やゆがんだ人間性は顕著だ。更生の可能性は著しく低い」だから死刑だそうです(2010年11月26日、朝日新聞)。


 以下、判決理由の要旨から、いくつかを拾い上げてみます。「各被害者に何ら落ち度がないことも考慮すると、結果は極めて重大かつ深刻だ。被害者や遺族が極刑を望む感情も量刑上考慮するのが相当だ」、「被害者らの精神的苦痛を和らげるに足りる謝罪をしていないうえ、被告が述べる反省の言葉は表面的であり、自分なりの言葉で反省の気持ちを表現したとまでは言えない」、「被告は犯行の重大性を充分に探求しているとは到底言えず、反省には深みがないといわざるを得ない。被告の更生の可能性は著しく低いと評価せざるを得ないと判断した」、「不安定な家庭環境などの生い立ちが犯行の遠因であるとしても、犯行の残虐さや結果の重大性に照らせば、量刑上考慮することは相当ではない」、従って判決は死刑となりました。


 たとえば、“被告が述べる反省の言葉が表面的ではなく、自分なりの言葉で反省を表現できていた”とすれば、この事件のこの犯罪は起こらなかったかもしれません。付き合っていた相手に言葉で伝え、相手の言葉を聞き、言葉で理解しあうことが可能だったはずですから。そうして言葉で解決することが選ばれなくて、二人を殺し、一人を傷つけてしまいました。判決理由は前掲の通りですが、だとすれば、この判決は事件の核心である“何故”に、何一つ迫っていないことになります。


 例えば“被告が犯行の重大性を十分に認識し、深く反省することの意味を理解する”くらいに人として成熟していたとしたら、この事件のこの犯罪は起こらなかったかもしれません。自分も含め、生命(命)というものが、どんなにたくさんの人や自然の営みの中で育まれ、奇跡のように守られてしかあり得ないことを学ぶのは、人の社会、自然によってです。もし、人の社会、自然の営みから、それを学び、教えられなかったとすれば、その人を育てた社会は、その責任を負うよりありません。もちろん、“少年”の場合のように、本人に死刑という形での責任を取らせたとしても、結果的に社会は責任を放棄したのと等しくなります。


 例えば「安定した家庭環境で生まれ育った」のだとすれば、この事件のこの犯罪は起こりにくかったかも知れません。人が人に対して親和し、心を開いて行くのは、生まれた時からの一つ一つの体験を通してです。まず、家族として親和し、家族として心を開くことを、“安定した環境”と言うなら、“少年”はそれには恵まれませんでした。そのことが、“遠因”となった犯罪であることを、裁判の判決は認めています。判決は、“被告の更生の可能性は著しく低いと評価”更に、そのことを“量刑上考慮することは相当ではない”とします。“遠因”は、遠因のままです。しかしそれでは“更生”“考慮”ということが、文字どおりの意味を持たなくなります。“自分なりの言葉”も“反省の深み”も、そして遠因となる“生い立ち”で、それを親身に学べる環境、中でも家族として生きる人たちの存在は不可欠なのですから。


 この犯罪の、無期か死刑かの量刑の選択にあたって“考慮”されている一つが「被害者の家族が極刑を望む感情も量刑上考慮するのが相当」という考慮です。事件や犯罪の裁判における判断が、その社会的背景を考慮するのはあり得ることです。だからと言って、犯罪を裁くのはその国の法ですから、法以外のものに多く考慮するのは、法を放棄するのに等しくなります。法に基づけば、人の死刑を決められるのが裁判(官)です。社会的にどんなに批判されることがあっても、法に基づいて判決を下すことをしなかったとすれば、その判決(判断)を委ねられている自分(の仕事)を否定することになりかねません。ですから、“被害者や遺族が極刑を望む感情も量刑上考慮する”、だから無期ではなく死刑にすると言ってはならないのです。


 で、こんな事件のこんな判決が下されてしまうこの国のことを、ちょっとだけ考えてみます。裁判員が判断に加わったこの裁判の、裁判員の感想が紹介されていました。「最後法廷から出される時の少年の表情を見て、納得できなかったかなと感じた」(同、朝日新聞)。“納得できなかったかな”ではなく、意味が解らなかったからだと考えられます。自分が犯した犯罪のことはもちろん、生きることも、自分が死刑囚として生きて処刑されることの意味も、“少年”には何一つそれとして了解されていないはずです。なぜなら、その一つ一つは、とても難しいことだからです。難しいことがあって、難しいことは避けられなくて、難しい中を悪戦苦闘しながら生きる時間で学ぶのが生と死であること、それにはたくさんの手助けが必要であることを、教えるも学ぶのも、至難の業なのです。
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