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小さな手大きな手

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2010年12月02週
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「子どもとことば」(岡本夏木、岩波書店) という小さな本を、教会の読書会で読んでいます。小さいとは言え、なかなか手強い本です。たとえば「子どもたちは、こうしたなかで、ことばの用法を習得し、対人関係を学び、認知能力を伸ばし、自我を形成していく。それはやがて青年期における『自分とは何か』『私はいかなる人間か』の懐疑をとおした言語的定式化をまって、明確な自己の自覚へと導かれるのである」(前掲書、p.165、“キミとボク”)。子どもが“キミとボク”、相手と自分の違いを知り、区分する時、世界は劇的に変わります。それは、文学(絵でもいい)を通した物語を理解できることを意味し、子どもの世界はうんと広がることになります。たとえば、ビアトリクス・ポターの小さな絵本「ピーターラビットのおはなし」には、いろいろあれこれ“キミとボク”が登場し、自分で読んでも読んでもらっても、ワクワク、ドキドキします。もし、“キミとボク”が区分できていないとすれば、たぶん、ワクワク、ドキドキの「ピーターラビットのおはなし」は、ちんぷんかんぷんのはずです。「ピーターラビットのおはなし」の最初のページは「・・・あるところに、4ひきの小うさぎがいました。なまえは、プロプシーに、モプシーに、カトンテールに、ピーターといいました。小さなうさぎたちは、おかあさんといっしょに、大きなもみの木のしたの、すなのあなのなかにすんでいました・・・」で始まりその様子も絵で描かれています。ページを一枚めくると、「あるあさ、おかあさんがいいました。『さあ、おまえたち、野はらか、森のみちであそんでおいで。でも、おひゃくしょうのマクレガーさんとこの、はたけだけは、いっちゃいけませんよ。おまえたちのおとうさんは、あそこでじこにあって、マクレガーさんのおくさんに、にくのパイにされてしまったんです』」。とお母さんが言っているのを、右側の絵では、3びきはちゃんと聞いているのに、1ぴきは他を向いています。お母さんの言葉が理解できないのではなく、聞いていないのです。キミとボクのボクは、言葉を変えて言えば、キミではないボクです。それが、このページのピーター(たぶん)です。この、“キミではないボク”がいて、ピーターラビットの絵本の物語は始まります。キミではないボクを生きてしまったピーターは、すんでのところでお父さんの二の舞になるところを逃げて、お母さんと3人の兄弟のところに、帰ります。ページ毎に、物語は、ボクではないキミも描かれて、ピーターの物語を盛り上げます。という、キミとボクになって物語を楽しむことになる始まりが、幼児期の言葉の獲得です。その言葉、そしてキミとボクを区分する力は、一方的な音声や文字から生まれるものではありません。生まれた時からの生きた経験に裏打ちされてのみ得られるのが子ども(人)の言葉です。「ことばはいうまでもなく音声を用いた人とのやりとりである。そこでは当然、まずことばの使用以前に人びととゆたかに交わり、感情をかわしあい、たがいに経験をわかちあうことができる発達が前提となる」(前掲書、p.9)。そうであって初めて、「ピーターラビットのおはなし」が、その言葉で、その絵で描いている、その時のピーターのお母さんの、その時のピーターの思いが伝わってきて、ワクワク、ドキドキする物語を、ワクワク、ドキドキ理解することになります。


 この国の子どもたちの理解力が急回復したのだそうです。「日本の読解力が急回復/国際労力調査、15→8位」(2010念12月8日、朝日新聞)。そんな訳で、「京都市立京都御池中学校は、週1回、独自教科『読解科』の授業・・・」をしていて、例えば、「中学校では絵や写真が印刷されたカードを1人が裏返して持ち、他の生徒が『それは食べられますか』『それは動きますか』などと質問。何が描かれているか当てることで、質問力を磨く授業をしている。広瀬忠愛校長は『生徒たちが将来の夢についても、きちんと根拠を説明しながら語ることができるようになった』と効果を実感している」のだそうです(同、朝日新聞)。“カード”のことは、幼稚園の子どもたちが、似たような遊びをすることがありますから、今時の中学生はその程度で、読解力を鍛えなければならない状態になってしまっているようです。それらを元にして、将来の夢を語れるようになるらしいのですが、読解力を養うことを読解科という教科にして、それで将来の夢を語る力がつくのだとすれば、その場合の将来の夢は、ただの机上の空論ということになります。たぶん、中学生ぐらいになって、“読解科”というような教科で、こんなことをしなければならないくらい、読解力が劣っているとしたら、事はそう簡単ではないのです。幼児期に始まって、“言葉の使用以前に人びととゆたかに交わり、感情をかわしあい、たがいに経験をわかちあうことで可能なるはずのものが、読解力ごっこの教科では、なかなか間に合わないのです。
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