ビアトリクス・ポターの、小さな絵本に描かれる小さな生きものたちの魅力は、たとえ唐「やなひと狽ナあっても、その柏カ態狽フことが正確に、かつ懸命に生きる様子が描かれるからです。
「キツネどんのおはなし」(いしいももこやく、福音館書店)の狽「やなひと狽フひとり、アナグマ・トミーのことも、短い言葉で、それがアナグマであることが、印象深く描かれます。「・・・けれども、キツネどんが、ひとつの いえをでていったからといって、そこが、あきやになるとはかぎりません。そのあとへ、アナグマ・トミーが(ゆるしも うけずに)はいってくることは、たびたび あるからです。トミーは、毛むくじゃらの ずんぐりやで、にやりと わらったような かおをしています」、「さて、トミーは、じつをいうと、ときたま、うさぎ肉のパイをたべました。でも、それは、ごくわかい うさぎの肉だけで、・・・」。キツネどんはといえば、次のような具合です。「・・・キツネは、いやなかんじのひげをはやし、ひっこしがすきでした。いつ どこへあらわれるか、けんとうもつきませんでした。きょうは、林のなかの、小えだでつくった小屋にいて、ちかくにすむ ベンジャミン・バニー一家をふるえあがらせる、かと思えば・・・」。買xンジャミン・バニー一家狽ヘ、ピーターのいとこ、ベンジャミンとフロプシーの家族たちのことです。うさぎの一家は、どうであれ、キツネどん、そしてアナグマ・トミーと近いところで生活し、時には狽モるえあがる狽アとを余儀なくされることもありました。野・山で生きるものたちは、時には命を奪い合うこともあって、住み分けているのです。ですから、うさぎは、狽「やなひと狽ナあってもキツネやアナグマと遠く離れて生きるという訳にはいきません。萩゚く狽ノ住んで「・・・1キロはなれていたって、キツネどんのにおいは、、つーんとにおってくる」特別の臭覚などの、生きる知恵を駆使して生きる様子が、ポターのうさぎたちの魅力です。もちろん、いつのどんな場合も、うまくいくとは限らないのは、人の場合と同じです。結果、とても残酷だったりする場合もあって「・・・トミーは、じつをいうと、ときたま、うさぎ肉パイをたべました」と書かれたりすることになります。しかし、野・山で生きるものたちは、そんなことをやたらにする訳ではありません。「・・・でも、それはごくわかい、うさぎの肉だけで、それも、ほんとうに ほかのたべものが、手にはいらないときにかぎりました」。機縁があれば、とまることを知らず生きてしまう人という生きものとは、大違いです。
グレー・ラビット シリーズ(アリスン・アトリーさく、神宮輝夫・河野純三やく、評論社)では、狽ワえがき狽ナ、柏カ態狽ェ紹介されます。「・・・グレー・ラビットも火をつかってお料理をします。でも、もやすのは木なのです。グレー・ラビットのいなかには、石炭もとれないのです・・・」。うさぎが、火をつかって料理するはずはありませんが、石炭がとれない時、木を使うという白m恵狽ヘ、ありそうなことではあるのです。そんな、グレー・ラビットのシリーズ「グレー・ラビット いたちにつかまる」のうさぎたちも狽「やなひと狽ナある強い生きものたちと、身につけた知恵を働かせて住み分けし、生きのびることになります。グレー・ラビットは、狽「やなひと・いたち)3人がかりで、いやらしいいたちの住居、穴に引きずり込まれ、"軟禁狽ウれてしまいました。いたちの穴からの脱出の手がかりになったのは、グレー・ラビットの口ずさむ「・・・気をひきたてるには、うたがいちばん」という歌でした。その歌を、狽「やなひと狽スちの前で強制され「・・・グレー・ラビットは、小さなはいいろの岩のようにしっかり立って、つねられても、しっぽをひっぱられても、がんとして口をひらきませんでした・・・」。友だちから届いた、小さな合図に勇気づけられたグレー・ラビットは、狽「やなひと狽スちと気丈に立ち向かうのです。「・・・グレー・ラビットは、まがったエプロンをきちんとなおし、どうどうと胸をはってうたいました。」という具合にです。
「ビロードうさぎ」(ぶん マージェリィ・ウイリアムズ、 やく いしいももこ、え ウィリアム・ニコルソン、童話館)は、人形のビロードうさぎが狽ルんもの狽フうさぎになる物語です。人形のうさぎが、狽ルんもの狽フうさぎになる為には、まずうさぎの人形としてほんものであることが条件です。「『ほんとうのものというものは、からだがどんなふうにできているか、ということではないんだよ』と、馬はいいました。『わたしたちの心とからだに、なにかがおこるってことなのだ。もし、そのおもちゃをもっている子どもが、ながいながいあいだ、そのおもちゃを、ただのあそび相手でなくて、とてもながいあいだ、しんからかわいがったとする。すると、そのおもちゃはほんとうのものになるのだ』、『そうなるとき、くるしい?』と、うさぎはききました。『ときにはね』と、馬はいいました。この馬は、いつも正直にものをいいました。」、人形のうさぎも、人形の馬も、ただの人形にすぎませんが、そこに魂が入るということは起こります。ビロードうさぎに、狽ルんとうのこと狽濶ウえる人形の馬は、子どもの部屋をただのおもちゃでいるだけで通り過ぎていくものたちのことを、繰り返し見てきました。同時に、子ども部屋で、狽モしぎな魔法狽ェ起こることも知っていました。人形が狽ルんとうのものになる狽ニいう魔法です。
「ビロードうさぎ」は2,3年前「ビロードのうさぎ」(マージェリィ・W・ビアンコ/原作、酒井駒子/絵・抄訳、ブロンズ新社)となって発行されています。しかし、「ビロードうさぎ」で狽ルんとうのこと狽ニして描いたことは、この新作から読みとることができないのは残念です。
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